ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

源平合戦の舞台に立つ鑑真創建のお寺 香川県高松市「屋島寺」(その103)

第八十四番札所 南面山  屋島寺

(なんめんざん  やしまじ)

住所 高松市屋島東町1808

電話 087-841−9418

一宮寺から屋島寺まで

距離  16.3km 標高差  +322m  -76m

一宮寺から屋島寺まで

寺は鑑真により開創されたと伝わる。鑑真は唐の学僧で、朝廷の要請を受け五度にわたって出航したが、暴風や難破で失明。天平勝宝五年(753)に苦難の末鹿児島に漂着する。翌年、東大寺に船で向かう途中、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得し、屋島の北嶺に登る。そして、山の頂に普賢堂を建立し、持参した普賢菩薩像を安置して経典を納める。後に弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立し、屋島寺と称して初代住職に就く。弘仁六年(815)、弘法大師嵯峨天皇の勅願を受けて寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺へと移す。また、十一面千手観音像を彫造して本尊として安置し、蓑山明神を寺の鎮護の神として祀る。以降、大師は寺の中興開山の祖として仰がれる。その後、寺は山岳仏教霊場として隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が寺を訪ねて四天王像を奉納する。現在の本尊・十一面千手観音坐像もこの頃に造られたという。寺運は戦乱によって衰退するが、国主生駒家の寺領寄進や歴代藩主の援助により相次いで修築される。明治に入ると廃仏毀釈運動により寺勢は衰退するが、明治三十年に屋島保勝会が結成され寺の復興につとめる。観光を兼ねた屋島登山は日清戦争後から盛んになったといい、これに伴い寺の堂宇も順次整備されることとなる。屋島源平合戦の古戦場として名高く、「那須与一の扇の的」や「義経の弓流し」などの舞台となった場所である。こうした由縁もあり、鎌倉時代の作である寺の梵鐘はいつの頃からか「平家供養の鐘」と呼ばれるようになる。この鐘は、本尊の十一面千手観音坐像や本堂と同様、国の重要文化財に指定されている。境内の池には大師がお経と宝珠を納めたとの伝説が残るが、その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから、こちらもいつの頃からか「血の池」と呼ばれるようになったという。本堂の右手にある蓑山大明神の祭神は日本三大名狸に数えられる「屋島太三郎狸」。蓑笠をつけた老人の姿で現れ、弘法大師を案内したと伝わる。四国狸の総大将で、子宝や縁結び、家庭円満にご利益があるという。本堂の左手前には「屋島寺宝物館」があり、本尊や源平盛衰記絵巻物、源氏の白旗、屋島合戦屏風など多彩な寺宝が保存・展示されている。寺は無料の屋島スカイウエイを登り切った終点にあり、巨大な駐車場と目に飛び込んでくる。ドライブウエイもあり、休日には団体バスツアーが続々と押し寄せる。お遍路さんはどちらかと云うと場違いな感じがするが、本堂の前に立つと不思議と心が落ち着き、周囲の喧騒も気にならなくなる。自分と御大師様との世界へとピタリとはまり込んだようであり、これも百を超す霊場を拝んできた成果なのかと妙に感心してしまう。四国霊場巡りも残り僅かとなり、お遍路三昧の週末もそろそろお終い。普段の週末に戻るのかと思うとホッとする反面、何やら一抹の寂しさを感じてしまう。寺からの下りは瀬戸内海を眼下に見ながらのワインディングロードで別名「源平ロマン街道」。霊場巡りの行程の中では、鯖大師本坊から最御崎寺までの海岸ルート、土佐清水市金剛福寺をつなぐ周回コースと並ぶ、スーパーカブの「三大快走路」だと思う。距離が短いのが少々残念だが、瀬戸内ならではの「多島海の風景」を楽しみながら下ることとしたい。

御詠歌 梓弓屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫

御本尊 十一面千手観音坐像

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

 

地獄の釜が煮えたぎるお寺 香川県高松市「一宮寺」(その102)

第八十三番札所 神毫山  一宮寺

(しんごうざん  いちのみやじ)

住所 高松市一宮町607

電話 087-885-2301

香西寺から一宮寺まで

距離  8.9km 標高差  ほぼ平坦

香西寺から一宮寺まで

縁起によると大宝年間(701〜704)、法相宗の祖・義淵(ぎえん)僧正が寺を開基したと伝わる。義淵は奈良仏教の礎を築き、行基東大寺初代別当の良弁僧正を教えたことで知られる高僧である。年号にちなみ寺を大宝院と称する。和同年間(708〜715)、諸国に一宮寺が建立された際、田村神社が讃岐一宮として建立され、寺はその別当となる。その後、行基が堂宇を修築し、寺名を一宮寺へと改める。大同年間(806〜810)に弘法大師が寺を訪れ伽藍を整備。聖観世音菩薩を刻んで本尊とし、真言宗へと改宗する。寺は天正の兵火により灰燼へと帰するが、中興の祖とされる宥勢大徳により再興される。江戸時代に入ると、高松藩主により寺は田村神社別当を解かれることとなり、現在地へと移転する。明治初期の神仏分離よりも200年も前に、本寺では神社との分離が行われたこととなり興味深い。寺の本堂左手には薬師如来を祀る小さな祠がある。「地獄の釜」と呼ばれ、祠の底から地獄の釜の煮えたぎる音が聞こえるという。この祠は、頭を入れると境地が開けるが、悪いことをした者が頭を入れると扉が閉まり、頭が抜けなくなると伝わる。昔、近くに暮らす意地悪のおタネ婆さんが「そんなことはない」と頭に入れると扉が閉まり、ゴーという地獄の釜の音が聞こえ頭が抜けなくなる。怖くなったおタネ婆さんは今までの悪事を謝ると頭がすっと抜け、以来おタネ婆さんは心を入れ替え、人々から慕われるようになったという。境内にはクスノキの大木が本堂と大師堂を覆うように茂り、葉の緑色がとても美しい。山門の両脇にある仁王尊立像は京都の仏師・赤尾右京の作。旅の道中安全を祈願する大わらじが奉納されている。駐車場は山門の反対側にあるので、知らずに入ると本堂の裏から入ることとなる。寺のすぐそばに県立高松南高校があり、自転車登校する生徒たちが走り去る。寺の参拝は地味な高齢者が多いため、それと対照的に若い子の制服姿がみずみずしく見える。どこの寺もそうだが、寺域は霊気の漂う異次元の世界。一歩駐車場に出ると普段の生活の場へと戻る。昭和の時代に「異邦人」という歌が流行ったが、霊場巡りこそ「遍路=異邦人」の孤独とその楽しさとを手軽に味わうことが出来る、最高の旅なのかも知れない。ロードバイクをこぎながら、思わず久保田早紀の歌を口ずさんでしまった。

御詠歌 讃岐一宮の御前に仰ぎきて 神の心を誰かしらゆう

御本尊 聖観音

真言 おん  あろりきゃ  そわか

 

移転と寺名改称を繰り返したお寺 香川県高松市「香西寺」(その101)

別格第十九番札所 寶幢山  香西寺

(ほうどうざん  こうざいじ)

住所 高松市香西西町211

電話 087-881-2337

根来寺から香西寺まで

距離  7.2km 標高差  +12m  -377m

根来寺から香西寺まで

寺は天平十一年(739)に行基により創建される。初めは勝賀(かつが)山の山中にあり、宝幢山勝賀寺と号した。弘仁八年(817)には弘法大師が寺を現在の地へと移転し、地蔵菩薩を刻んで安置する。行基が開創した元の地は奥の堂と称されるが、勝賀山の北麓にて奈良期の瓦が出土する古代寺院跡が発見されたことから、この地が奥の堂であったと考えられている。寺は嵯峨天皇(在809〜823)の勅願寺に選ばれ、千貫の寺領を賜る。天慶年間(938〜947)には談議所に選定され、僧侶の学問研鑽の場として栄える。鎌倉期の貞応元年(1222)、この地の守護職である香西資村が将軍九条頼経の命を受けて堂塔を修繕し、寺名を香西寺へと改める。南北朝時代には室町幕府守護大名細川頼之が寺を本津に移し、その後、香西家第十一代の当主である香西元資が寺号を地福寺へと改称する。天正の戦火により伽藍は灰塵へと帰すが、讃岐国の国主となった生駒親正が再建し、寺名を高福寺へと改める。満治元年(1658)には失火で焼失し、現在の地へと移転する。寛文九年(1669)には藩主の松平頼重公が伽藍を再建し、別格本山香西寺と改称する。その後当時の七堂伽藍はほとんど失火で焼失し、現在の建造物はその一部である。このように寺は場所を三回移転、寺名を四回改称しており、四国霊場の中でもこうした複雑な変遷は稀である。大きなワラジのかかった山門をくぐって一直線に進むと本堂がある。本堂の右側には毘沙門堂があり、国の重要文化財に指定されている毘沙門天立像が祀られている。藤原時代の弘仁仏としては全国的にも逸品とされる。更にその右手には大師堂兼護摩堂がある。少し下ったところにある納経所は閻魔堂と同じ建物。堂内には仏足跡があり、その上から閻魔大王を巡拝祈願が出来る。寺は香西町の町中にあるが、少し奥まったところにあり意外と静か。境内も思った以上に広く開放的である。また、納経所には色々なものが所狭しと販売されており、見ていると別格霊場ならではの楽しさがある。別格霊場巡りも残りあと一寺で、残るは大ボス級の山寺・大瀧寺。いつものことだが、山寺巡りの後にこうした町中の寺に来るとなぜかほっとする。香西町の街並みとともに、境内の景色をしっかりと目に焼き付けておきたい。

御詠歌 南無大悲延命地蔵大菩薩 みちびきたまへこの世のちの世

御本尊 延命地蔵菩薩

真言 おん  かかかびさんまえい  そわか

 

空飛ぶ人食い怪獣牛鬼を退治したお寺 香川県高松市「根来寺」(その100)

第八十ニ番札所 青峰山  根来寺

(あおみねさん  ねごろじ)

住所 高松市中山町1506

電話 087-881-3329

白峯寺から根来寺まで

距離  15.3km 標高差  +437m  -330m

白峯寺から根来寺まで

寺伝によると、弘仁年間(810〜824)にこの地を訪ね、五色台の五つの峰に金剛界曼荼羅五智如来を感得した弘法大師は、密教修行の場として青峰に「花蔵院」を建立し、五大明王を祀ったとされる。天長九年(832)、大師の甥にあたる智証大師が花蔵院を訪れると、山の鎮守である一之瀬明神に出会い、「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」とお告げを受ける。智証大師は蓮華谷の木で千手観音像を彫造し、「千手院」を建て安置する。この霊木の切り株から芳香が放ち続けられたことから、智証大師は「花蔵院」「千手院」を総称して根香寺と名づける。寺は後白河天皇の帰依も厚く、勅願所となって隆盛を極めるが、度重なる兵火で衰退。江戸時代に高松藩主により再興され、併せて天台宗へと改宗される。寺には牛鬼伝説が残る。青峰山には昔、人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいた。牛鬼は牛の如く角が生え、目は大きく爛々と輝き、手足には大きな爪、コウモリのように大きな羽根を持ち空を自在に飛んだという。村人に頼まれた弓の名人である山田蔵人高清が退治しようとしたが、山へ入れどなかなか牛鬼が現れない。そこで高清は根香寺の本尊に願をかけると、二十一日目の満願の暁に牛鬼が現れ、口の中に高清が放った矢が見事に命中したという。高清は牛鬼の角を切り落として寺に奉納。寺にはその時の角と牛鬼の姿が描かれた掛け軸が伝わり、牛鬼の絵柄は魔よけのお守りとなる。境内にある五大堂には、弘法大師の開基ゆかりの五大明王不動明王、降三世夜王、軍茶利明王大威徳明王金剛夜叉明王)の像がある。像の中心は不動明王で、藩主松平頼重が「霊験あれば示し給え」と祈念したところ立ち上がったとの伝説が残る。山門近くの茂みの中には牛鬼の像があり、鬼気迫る面持ちで立っている。また、山岳霊場らしく、山門をくぐった所には修験道の祖、役行者の像がある。境内の脇には白猴欅(はっこうけやき)という珍しい名の木の幹が保存されている。樹齢千六百年とも言われるケヤキの老木で、名の由来は智証大師が寺院創建の折、この樹を伝って下りてきた白い猿が大師を手助けしたとの伝説による。本堂の前は凹字型の回廊となっており、信者が奉納した約三万三千体の万体観音像が並んでいる。また、傍にははらくわり地蔵があり、周辺の木を伐採するとお腹が痛くなるという言い伝えが残されている。山門から本堂へは一直線の階段を一旦下って登ることとなり、印象に残る参道である。紅葉の名所でもあり、その時期には観光客がどっと押し寄せるとのこと。寺は五色台に立ち、五大堂がある。地、水、火、風、空の五つは万物を構成する要素で「五大」と呼ばれる。仏教ではこの五という数字は特別な意味を持ち、五台山や剣五山、五岳山、五剣山など五のつく山号が多く見られる。寺は五色台スカイライン(無料)の入口近くにあるので、せっかくだから回り道してみるのもお勧め。スカイラインからは眼下に瀬戸内海をはじめ、海に浮かぶ大槌島、小槌島などの多島美や瀬戸大橋を眺望することが出来る。途中には休憩スポットを兼ねた展望所が幾つか設置されているので、スマホでの写真撮影を楽しみたい。

御詠歌 宵のまの妙ふる霜の消えぬれば あとこそ鉦の勤行の声

御本尊 千手観音

真言 おん  ばさら  たらま  きりく  そわか

 

崇徳上皇の御陵を有するお寺 香川県坂出市「白峯寺」(その99)

第八十一番札所 綾松山  白峯寺

(りょうしょうざん  しろみねじ)

住所 坂出市青海町2635

電話 0877-47−0305

国分寺から白峯寺まで

距離  12.9km 標高差  +312m  -78m

国分寺から白峯寺まで

寺伝によると弘仁六年(815)、白峯山に登った弘法大師が山頂に如意宝珠を埋めて井戸を掘り、衆生済度を祈願する。貞観ニ年(860)、大師の妹の子である智証大師が瑞光に導かれて白峯山に登頂し、地主神である白髪の老翁から御神託を授かる。智証大師は、補陀洛山から流れ着いた光明に輝く霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊として佛堂を創建する。保元の乱(1156)に破れ讃岐へ流された崇徳上皇は、都へ帰りたいという思いが叶わぬままこの地で没し、白峰山の稚児嶽上(ちごがたけ)で荼毘に付される。死後、都では天変異変が相次ぎ発生し、人々は上皇の祟りと恐れる。仁安元年(1166)、上皇と親交のあった西行法師が慰霊の為に御廟に参詣する。その際に法師が上皇の霊と歌を詠み交わした話は、上田秋成作「雨月物語」に記されており、中でも西行上皇を慰めた歌「よしや君むかしの玉の床とても  かからむのちは何にかはせむ」は広く知られている。上皇の怒りを恐れる代々の天皇、公卿、武将は御府荘園を寄せて菩提を弔い、種々の霊器宝物を奉納して慰霊の誠を尽す。建久二年(1191)には法華堂が御陵の東に建てられ、応永二十一年(1414)には後小松天皇が法華堂に「頓証寺」の勅額を奉納し、尊崇の意を表する。明治に入ると御陵は寺から宮内省の管轄に移り、明治三年には上知令が出て寺領は境内を残し没収される。崇徳天皇八百年祭に当たる昭和三十九年には、昭和天皇が御陵に勅使を遣わし、式年祭が執り行われている。寺には文化財が多く残され、建造物では十三重石塔ニ基、山門、御成門、勅使門、客殿、勅額門、頓証寺殿、薬師堂、行者堂、阿弥陀堂、本堂、大師堂が、美術品では「頓証寺」の勅額がいずれも国の重要文化財に指定されている。高松藩松平頼重が造営した勅額門と頓証寺殿は装飾、構造共に非常に手が込んでおり、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめらている。天皇、神、仏の三者を一堂で祀る形式は、全国的にも他に類を見ないという。古来より、本尊の千手観世音菩薩は身代わり観音として、白峯大権現(相模坊)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神様として、崇徳天皇は悪縁切り、芸事、学問の神様として信仰されている。境内には四国で唯一の天皇墓所である御陵(白峯陵)が隣接し、日本八天狗の一狗である白峯大権現(相模坊)が祀られている。寺には相模坊という天狗にまつわる話が残る。急な来客を受けた和尚の命により豆腐を買いに出かけた小僧は、突然、何者かに背中を押されて空を飛ぶような感覚となる。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等な絹豆腐を受け取り、元の場所へと戻る。これは、突然の買い物に走る小僧を気の毒に思った相模坊が小僧を助けたものと今なお語り継がれている。ちなみに、御陵の中で都から離れた場所にあるのは、下関の安徳天皇陵と淡路島の淳仁天皇陵とこの地のみである。また、寺には玉章(たまずさ)の木にまつわる話が伝わる。崇徳上皇がほととぎすの鳴き声に都を偲び、和歌を詠んだところ、ほととぎすはその意を察し、嘴に木の葉を巻いて声を忍び鳴いたといわれる。その巻いた葉が玉章(手紙)に似ているため、ほととぎすの落とし文・玉章と呼ばれ、その葉を懐中すれば必ずよい便りがあると伝わる。現在境内にある木は古の玉章の木を偲んで植樹されたものである。山門を進むと正面に護摩堂、その中に納経所がある。左に曲がり進むと勅額門とその奥に頓証寺殿がある。そこから石段を九十九段登ると本堂と大師堂があり、結構な登りがいである。寺がある五色台は、高松、坂出両市と国分町にまたがる巨大な溶岩台地で、西の白峰に本寺が、東の青峰に次の霊場根来寺がある。五色台とは、密教がいう五つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を五体の如来に当てはめた「五智如来」を現すとも言われており、どこか霊場としての雰囲気が全山で漂う。寺は頓証寺殿や白峯陵まで含めると見どころが多く、観光客も多数来訪している。足早に過ぎ去るには惜しい名勝であり、ここは時間をかけて見学するのがお勧め。八十八霊場の中で、皇室・神様・仏様をまとめて勉強できる貴重な場所である。

御詠歌 さむく露白妙の寺のうち 御名をとなうる法のこえごえ

御本尊 千手観音

真言 おん ばさら たらま きりく

 

「鐘がものいうた国分の鐘が」のお寺 香川県高松市「国分寺」(その98)

第八十番札所 白牛山  国分寺

(はくぎゅうざん  こくぶんじ)

住所 高松市国分寺町国分2065

電話 087-874-0033

天皇寺から国分寺まで

距離  6.7km 標高差  ほぼ平坦

天皇寺から国分寺まで

寺は天平の時代、聖武天皇の勅願により一国一寺建立された官寺。寺伝によると行基が丈六の十一面千手観世音菩薩を本尊として刻み、開基したとされる。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修繕して四国霊場と定める。大師は修繕のための霊木を探すと、北の国分台、赤峰の麓で木が空から落ちてきたため、それを刻んだと伝わる。寺にはその残木があるが、何の木か学者も分からないとのこと。天正の兵火で本堂、本尊、鐘楼を除く堂塔のほとんどを焼失するが、江戸時代に入ると、高松藩主生駒家や松平家の庇護を受け再興を果たす。寺域は広く、創建以降の遺構が多数残されている。境内に点在する三十三個の大きな石は創建時の本堂の礎石で、その配置から、同じ頃に建てられた奈良唐招提寺金堂と匹敵する規模と推定される。また、同じく十五個点在する大きな石は七重塔の礎石で、京都東寺の五重塔を超える大塔であったと推定される。本堂は鎌倉時代後期の作で、奈良時代の講堂跡の礎石を利用して建てられている。本尊の木造千手観音立像は平安時代末期の作で、鐘楼とともにこれら三点は国の重要文化財に指定されている。この鐘楼には逸話が残る。江戸時代初期の藩主生駒一正が、この鐘を高松城へ運ぼうとすると異様なほど重く、大勢の人馬が必要となるほどであった。鐘は城に着いた途端に音が鳴らなくなり、城下では悪病が大流行。藩主自身も病に倒れ、夜な夜な枕元に鐘が現れては「もとの国分へいぬ(帰りたい)」とすすり泣く。そこで鐘は寺へと返すことになり、城から運ぼうとすると鐘は急に軽くなり、寺に着いた途端悪病が収まったという。山門をくぐり参道を進むと左に閻魔堂、右に四国最古の釣鐘がある。さらに進んで小さな橋を渡ると正面に本堂が建つ。右手に戻ると納経所があり、遍路用品が並ぶ構内に入ると奥に大師堂拝殿がある。御朱印の記帳を待つお遍路さんが並ぶ傍ら大師堂へと参拝する形となり、何やら落ち着かないが、これも修行の一つ。また、寺は時間に厳しく山門は17時より少し前に閉じられ、参拝者は17時までに全員が裏門からの退出となる。このため、山門へは外壁に沿ってぐるりと回って戻ることとなり、何やら味気なく感じられるが、これもまた修行の一つ。寺には早く来なさいということ。境内は広く、数多くの大きな礎石と立派な松林が印象的で、四国の国分寺の中で寺は一歩抜きん出た威容を誇る。桁行五間、梁間五間の本堂はどっしりとした重厚感を見る人に与える。国分寺跡で国の特別史跡に指定されているのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡だけだという。「鐘がものいうた国分の鐘が  もとの国分へいぬというた」とは有名な民謡だったそうだが、昭和のガイドブックによると「もう歌える人はほとんどいない」とのこと。令和の今もそうなのか、少々気になった。ここらか先は讃岐の山寺巡りが始まるが、寺は五色台・屋島という香川を代表する観光地にある。標高はそれなりだが、徳島や高知の山寺と違って路面には落石も苔もなくとても走りやすい。海あり山ありのワインディングが楽しめ、スーパーカブでビュンビュン飛ばすのが心地よい。

御詠歌 国を分け野山をしのぎ寺々に まいれる人を助けましませ

御本尊 十一面千手観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

 

さすらいの崇徳上皇ゆかりのお寺 香川県坂出市「天皇寺」(その97)

第七十九番札所 金華山  天皇寺

(きんかざん  てんのうじ)

住所 坂出市西庄町天皇1713−2

電話 0877-46−3508

郷照寺から天皇寺まで

距離  6.1km 標高差  ほぼ平坦

郷照寺から天皇寺まで

天平年間(729〜749)に四国巡錫のため当地を訪れた行基は、この山がカナヤマビメとカナヤマヒコの鎮座する山であると感得。山の中腹に薬師如来を本尊とする金山摩尼珠院を建て、山を金山と名付ける。この金山は四国で唯一、アルミニウムの鉱床があることで知られる。弘仁年間(810〜824)には弘法大師がこの地を訪ね、古くから霊泉と知られた八十場(やそば)のほとりに光放つ霊木を見つける。すると一人の天童が空中から現れ、閼伽井(あかい:水のこと)を汲み大師に給仕する。この天童は金山を鎮守する金山権現で、永くこの山の仏法を守護するようにと持っていた宝珠を大師に預ける。大師は霊木で十一面観音菩薩阿弥陀如来愛染明王の三像を刻み、堂宇に安置。宝珠を嶺に埋めて寺名を摩尼珠院妙成就寺と改める。その後、法元元年(1156)、保元の乱に破れ讃岐へと流された崇徳上皇が、末寺の長命寺を行宮とする。流刑の身である上皇は激しい憤りと悲嘆に沈まれ、その様子は「世を呪い御髪も御爪も切らせられずお目陥り悲しげなること天狗のごとし」と伝わる。上皇はこの地で崩御したため、上皇の霊を鎮めるため二条天皇崇徳天皇社を建立。寺は神宮寺(神社に附属する寺院)となり、別名天皇寺と呼ばれるようになる。明治に入ると崇徳院御霊は京都白峰宮へと戻され、上皇を祀ることのない崇徳天皇社は白峰宮へと改称される。また、廃仏毀釈により摩尼珠院は廃寺となるが、筆頭末寺の奇香山仏乗寺を引き継ぐ形で明治二十年に再興を果たし、寺名を天皇寺へと改める。寺には山門がなく、大きな鳥居の左右に小さな鳥居のついた珍しい三輪鳥居をくぐると、正面奥に白峰宮がある。その手前を左に行くと本堂と大師堂、右に行くと本坊と納経所がある。何も知らずに行くと「鳥居があるので、寺は別の場所では」と勘違いし易く、また、境内に入ってもどこが本堂かと最初は戸惑うが、標識どおりに進めば直ぐに見つかる。八十八霊場の中でも境内の狭さは一二を争うほどではないかと思えるほどで、奥の白峰宮を含めどことなく寂しさが漂う。寺はJR予讃線の線路を超え、小高い丘を登るとすぐの距離にある。寺の本尊の十一面観音は水を司る仏様。近くにある予讃線の駅の名は「八十場」。八十場とは「沢山の水が落ちるところ」という意味で、寺から500mほど行くと霊泉「八十蘇場の清水」と地蔵堂がある。今から二千年程前のこと、瀬戸内海に住む悪魚を退治した日本武尊ヤマトタケルノミコト)の部下八十八人が魚の毒気に当たって昏倒。そこへ神童が現れ、この地の水を飲ませたところ全員が正気に戻ったと伝わり、今では香川県の強力なパワースポット。清水屋名物のところてんも楽しめるので、暑い時期には是非立ち寄りたい。

御詠歌 十楽の浮世の中をたずねべし 天皇さえもさすらいぞある

御本尊 十一面観世音菩薩

真言 おん  まか  きゃろにきゃ  そわか