ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

空也上人ゆかりのお寺 愛媛県松山市「浄土寺」(その58)

第四十九番札所 西林山  浄土寺

(さいりんざん  じょうどじ)

住所 松山市鷹子町1198

電話 089-975-1730

西林寺から浄土寺まで

距離  2.9km 標高差  ほぼ平坦

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西林寺から浄土寺まで

聖武天皇の皇女、孝謙天皇(749〜758)の勅願を受けた恵明上人が、行基作の釈迦如来像を本尊として祀り、開創したのが寺の始まりとされる。当時は法相宗の寺院であった。のちに弘法大師がこの寺を訪ねて荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗。その頃から寺運は栄えて寺域は八丁四方に及び、最盛期には六十六坊の末寺を持つほどの大寺院となる。天徳年間(957〜961)には天台宗の僧空也上人が四国巡歴の際に浄土寺へ滞留し、村人への布教に努める。空也は、貴賎を問わず念仏を唱えれば極楽に行けると説いたことで知られる平安中期の僧。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。「市の聖」として民衆から慕われ、その教えは伊予出身の一遍上人に引き継がれる。建久三年(1192)に源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復するが、応永二十三年(1416)の兵火で焼失、文明十四年間(1482)に領主河野道宣によって再建される。本堂と内陣の厨子は当時の建造であるが、慶安ニ年(1649)と昭和三十六年に大規模な修理を実施。和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。本堂に置かれた厨子には巡礼者が書いた墨書落書きがあり、その中には「辺路」の文字がある。また、落書きされた最古の年号として「大永五年」(1525)が見られる。寺には鎌倉時代作の空也上人立像が伝わる。左手に鹿杖、右手に撞木(しもく)を持って鉦を叩きながら行脚する姿はまさに空也の生き写しである。口元から六体の阿弥陀小化仏を吐く像は、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口から出る姿を表している。境内入口には正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。また境内には空也手植えとされる松の切り株が残る。院号の「三蔵院」は浄土宗の開祖・法然上人、第二祖・聖光上人、第三祖・良忠上人の自作像を安置していたことに因むが、出開帳先の寺で松山空襲により全焼する。山門前の御衣黄桜は四月中旬頃に緑色の花びらが開花する。寺は伊予鉄道を見下ろす小山の中腹に立ち、広い境内が特徴。商店が多く立ち並び、いよいよ松山の市街地に近づいてきたことが分かる。

御詠歌 十悪のわが身を棄てずそのままに 浄土の寺へまいりこそすれ

御本尊 釈迦如来

真言 のうまく さんまんだ  ぼだなん  ばく

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