ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

衛門三郎再生のお寺 愛媛県松山市「石手寺」(その60)

第五十一番札所 熊野山  石手寺

(くまのざん  いしてじ)

住所 松山市石手2-9-21

電話 089-977-0870

繁多寺から石手寺

距離  2.8km 標高差  ほぼ平坦

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繁多寺から石手寺まで

神亀五年(728)伊予の豪族越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得。熊野十二社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇の勅願所となる。翌年の天平元年(729)に行基薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、寺名を安養寺とする。弘仁四年(813年)に弘法大師が寺を訪れ、宗派を法相宗から真言宗へと改める。寺名を石手寺と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話による。これは別格第九番札所文殊院で記した衛門三郎にまつわる話の続きであり、以下による。

・・・衛門三郎が死んでから数十年後のこと、伊予の国司河野息利に男子が誕生するが、子は握りしめた右手をどうしても開こうとしない。このため安養寺の住職が祈願したところ、握っていた手が開き中から「衛門三郎再生」と書かれた石が現れる。この石を安養寺に納めたことから、寺名が石手寺へと改められる。・・・

寺は河野家の居城・湯築城から近く、河野家の庇護を受け繁栄する。平安時代から室町時代に至る間が最盛期であり、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。永禄九年(1566)に長宗我部による兵火をうけ堂宇の大半を失うが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れる。国宝の仁王門は文保二年(1318)に河野道継により建立されたと伝わる。二層入母屋造の本瓦葺きの門は鎌倉時代の傑作として名高い。本堂、三重塔、鐘楼、訶梨帝母天堂も鎌倉時代の建築で国の重要文化財に指定されている。室町時代護摩堂や鐘楼に吊るされた県下最古(1251)の銅鐘、源頼朝を供養した五輪塔(1190)も国の重要文化財であり、寺は文化財の宝庫である。宝物館には衛門三郎が生まれ変わったときに握っていたとされる「玉の石」が安置されている。境内は広く、三重塔を中心に曼荼羅界を表している。左回りに巡れば心が安らかになり、右回りに巡れば人の痛みが分かるとされる。訶梨帝母天堂は子授け、安産にご利益があるとされ、妊婦は堂周りの石を持ち帰り、無事に出産すると石をニつにして返すという風習がある。山門をくぐると右手に茶堂がある。奉納した線香の香炉が絶えることがないと言われる。本堂近くの韋駄天健脚天には「七転び八起き元気石」が置かれている。大師堂の壁には正岡子規夏目漱石など文化人の落書きが多く記されており、「落書堂」と呼ばれていたが、壁は第二次大戦中に塗りなおされた。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は白鴎時代(680頃)に奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられたとの考証もある。高さ24mの三重塔には八十八箇所と高野山金剛峯寺の砂が入った袋が置かれ、お砂踏みならぬ「お砂撫で」ができる。寺は松山市の北東にそびえる高縄産経の麓高台に立つ。近くを石手川が流れ、名湯道後温泉からも近い。県道からは伝説の残る渡らずの橋、衛門三郎像の横を過ぎ、仲見世をくぐると国宝仁王門が見えてくる。売店が多く立ち並び、見ていて飽きることがない。観光客も多く訪れ、四国霊場の中で一番の賑やかさを感じる。見どころも満載で、ここでは時間をかけて巡ることとしたい。「目の上や御くじを引けば秋の風」「見上ぐれば塔の高さよ秋の空」は地元生まれの正岡子規の句、「伊予の秋、石手の寺の香盤に海のいろして立つけむりなか」は与謝野晶子の歌。石手寺はどうも秋の寺のようである。

御詠歌 西方をよそとは見まじ安養の 寺に詣りて受くる十楽

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

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