ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

真野長者の一夜建立のお寺 愛媛県松山市「善楽寺」(その61)

第五十ニ番札所 龍雲山  太山寺

(りゅううんざん  たいさんじ)

住所 松山市太山寺町1730

電話 089-979-0329

石手寺から太山寺まで

距離  10.8km 標高差  +101m  -91m

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石手寺から太山寺まで

用明ニ年(587)、豊後の真野長者が商いのため船で大阪に向かう時、暴風雨に遭遇する。真野長者はふいごの炭焼きであるが、神のお告げにより久我大臣の娘・王津姫と結婚して以来時運が開け、大富豪となった人物とされる。難を逃れるため観音菩薩に祈願したところ、瀧雲山の山頂から光が差し時化が静まり、高浜の岸に無事漂着する。その光の差した山頂に行ってみると、一寸八分の十一面観音を祀った小さな草堂があり、長者は恩返しにと一宇の建立を大願する。豊後に戻った長者は工匠を集め、間口六十六尺、奥行き八十一尺の本堂を木組みして船積する。順風を受けた船は高浜に到着。夜を徹して組み上げて、朝日が燦然と輝くころに本堂が建ち上がる。以来、寺は「一夜建立の御堂」とされる。聖武天皇の勅願を受け、天平十一年(739)に行基菩薩が六尺の十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納め本尊とする。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749〜58)の頃で、七堂伽藍と六十六坊を数えるほどの壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に寺を訪れ、護摩供の修法を行い宗派を法相宗から真言宗へと改宗する。朝廷の帰依も篤く、後冷泉天皇(在位1045〜68)以降、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の六代にわたる天皇が十一面観音像を奉納する。いずれも像高が150cm程度で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財に指定されている。国宝である現存の本堂は三代目で、嘉元三年(1305)に伊予国守護河野家により再建されたもの。柱や梁などの木組みは大きく、和様ながらも宋の様式を取り入れた折衷様式である。真言密教では国内最大規模を誇り、大仏様の代表とされる東大寺の南大門に通じる豪放な力強さを感じる。寺には門が四門あり、二の門の仁王門は国の重要文化財に指定。禅宗様との折衷様である入母屋造本瓦葺き八脚門は鎌倉時代の特色を今に伝える。境内には法隆寺の夢殿を模した聖徳太子堂が立つ。学業成就にご利益があり、しゃもじを奉納するのが習わしとされる。大師堂の前にはゴマフアザラシに似た石があり、他に亀の石や三重塔の礎石がある。寺の参道は長く、バス停のある一の門から本堂まで約1kmある。重厚な構えを見せる本堂は壮観で、立派の一言に尽きる。樹海の中にある境内は広く、堂宇は整然と立ち並び、四国霊場の中でも有数の寺である。市街地の寺院巡りが続いたので、寺の静寂感が何とも心地よい。運が良ければ地元の方のお接待に巡り会える。

御詠歌 太山へのぼれば汗のいでけれど 後の世思へば何の苦もなし

御本尊 十一面観音

真言 おん  まか  きゃろにきゃ  そわか

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