第五十三番札所 須賀山 圓明寺
(すがさん えんみょうじ)
住所 松山市和気町1-182
電話 089-978-1129
太山寺から圓明寺まで
距離 2.8km 標高差 +1m -59m
天平勝宝元年(749)に聖武天皇の勅願により行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立する。当時は和気浜の西山という海岸にあり、海岸山圓明密寺と称した。松山にある八寺のうち行基が開いたのは五寺となるが、圓明寺は行基最晩年の創建で、大仏建立のため諸国を勧進し回っていた頃に当たる。後に弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興するが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微。元和年間(1615〜24)に土地の豪族須賀重久によって現在地へと移される。寛永十年(1633)に須賀専斎重久が私財により再興を果たすが、その功労により寛永十三年(1636)仁和寺の覚深法親王より須賀山の山号を賜り、仁和寺の直末となる。本堂右上の鴨居には左甚五郎作と伝わる長さ5mほどの龍があり、行い悪い人が見ると目が光るとされる。大師堂左の塀ぎわには寛永年間(1624〜1644)作のキリシタン灯籠があり、高さ40cmのマリア観音像が刻まれている。キリシタン禁制の時代ではあるが、この地方には信者が多く住み、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようである。大正十三年にシカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途中、寺の本尊阿弥陀如来像を安置している厨子に納札が打ち付けてあるのを見つける。江戸時代初期にあたる慶安三年(1650)の銘があり、縦24cm、幅10cm、厚さ約1mmの大きさ。破損のない納札としては現存する四国霊場最古の銅板納札であり、市の民俗文化財に指定されている。札を奉納した樋口平人家次は、京都五智山蓮華寺の伽藍を再興し、五智如来石仏を造立したことで知られるが、この納札で注目されるのは四国霊場の中で初めて「遍路」の文字が記され、残されていることだという。寺のある和気町は伊予の国府があった今治へと通じる「今治街道」の要所であり、堀江港や三津浜港からも近い。寺はその町中にあり、小ぢんまりとしているが趣きは十分。近くにはJR予讃線が通る。寺の掲示板にある絵には「石の上にも三年 十年たてば必ず実もなる花も咲く」とあり、左下にはその英訳が添えてあった。どこで作られたか分からなかったが、心に染み入る言葉だと思う。
御詠歌 来迎の弥陀の光の圓明寺 照りそふ影は夜な夜なの月
御本尊 阿弥陀如来
御真言 おん あみりた ていぜい からうん