ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

大山祗神社の別当寺 愛媛県今治市「南光坊」(その64)

第五十五番札所 別宮山  南光坊

(べっくざん  なんこうぼう)

住所 今治市別宮町3-1

電話 0898-22-2916

延命寺から南光坊まで

距離  3.7km 標高差  ほぼ平坦

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延命寺から南光坊まで

推古天皇に勅願により御代二年(594)大三島大山祇神社の元となる遠土宮が造立される。その後、風波のため祭祀が疎かになるのを憂いた文武天皇の勅願を受け、伊予の国司越智玉澄が大山積明神を伊予国越智郡日吉村に勧請して別宮を造営する。別宮は和銅五年(712)に完成し「日本総鎮守三島の地御前」として奉祀される。この時、大山祇神社の法楽所として別当寺二十四坊を建立し、このうち八坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊正治年間(1199〜1201)に別宮の別当寺大積山光明寺塔頭として現在の地へと移されたのが寺の始まりとされる。弘仁年間(810〜824)には弘法大師は四国巡錫の折に別宮を参拝し、坊で法楽を上げ霊場と定める。その後、天正の兵火で八坊全て焼失するが、今治藩主藤堂高虎により南光坊のみが別宮の別当寺として再建を果たす。江戸時代には今治藩主久松家の尊信を受け、祈祷所として定められる。明治初期の廃仏毀釈により、本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像・観音菩薩像を南光坊薬師堂へと遷座し、別宮大山祇神社と分離される。太平洋戦争により大師堂と金比羅堂を残して罹災するが、本堂は昭和五十六年、薬師堂は平成三年、山門は同十年に再建される。本堂には、過去世における釈迦如来の父であり、また師ともされる大通智勝仏が本尊として祀られている。「法華経」の化城喩品第七に説かれている仏で、大山積明神の本地仏である。大師堂の本尊は弘法大師像で、堂宇は長州大工の建築技術が結集した建造物と言われる。空襲での戦禍を免れたが、伝えられるところによると焼夷弾が境内に落とされた際、いずれもが大師堂の屋根を滑り落ち、堂内の者が全員無事であったという。山門には四方を守る持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、南光坊の別称「日本総鎮守三島地御前」の扁額が掲げられている。境内には金毘羅大権現を祀る金毘羅堂がある。船人から崇敬される讃岐の金比羅宮から勧請したもので、寺では最も古く文久年間(1861〜1864)の建立と伝わる。寺は今治市の中心部にあるが境内は広く、別宮大山祗神社が隣接している。神社の神紋はちぢみ三の字。元寇の戦いに自船の帆柱を倒し、これを伝って敵船に斬り込んだ河野通有で知られる越智水軍の統領・河野家の紋でもある。大山祗神社の本宮は大三島にあり、言わずと知れた大三島大明神。武将の信仰が極めて篤く「日本総鎮守」と呼ばれる。寺のある今治は、これも言わずと知れたサイクリストの憧れ「しまなみ海道」の出発地であり、途中には大三島も通る。南光坊のお参りが済んだら、ここは少し足を伸ばして大三島大山祗神社へと参拝することをお勧めする。全国にある山祇神社の総本社であり、国宝・重要文化財の指定を受けた甲冑の四割がこの神社に集まる。しまなみ海道スーパーカブでも自転車道を走れるので、スピードを落として来島海峡の絶景を楽しむのがよい。但し、しまなみ海道スーパーカブよりもロードバイクの方がお似合いである由、これも再び言わずと知れたこと。

御詠歌 このところ三島に夢のさめぬれば 別宮とても同じ垂迹

御本尊 大通智勝如来

真言 おん  あびらうんけん  ばざら  だどばん

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