ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

死霊の行くお寺 香川県三豊市「弥谷寺」(その87)

第七十一番札所 剣五山  弥谷寺

(けんござん いやだにじ)

住所 三豊市三野町大見乙70

電話 0875-72-3446

本山寺から弥谷寺まで

距離  12.1km 標高差  +196m  -18m

本山寺から弥谷寺まで

寺伝によると天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅願により行基菩が堂宇を建立。光明皇后の菩提を弔うため「大方広仏華厳経」を祀り、寺を創建したとされる。また、寺宝の経典の中には神亀元年(724)頃に作られた経典が残され、それ以前に建立されていたとも言われる。その後、唐から帰国した弘法大師が大同二年(807)に入山し、真言密教の秘法を勤修する。その満願の日に五柄の剣が天から降り金剛蔵王権現の姿を現したため、大師はこれを彫像。唐から持ち帰った五鈷鈴と五柄の剣と共に納め、山号を剣五山、寺名を仏の住む弥山から弥谷寺へと改める。大師は七歳から十二歳の頃にもこの地で修行に励んだと言われ、場所は大師堂奥の洞窟。獅子が咆哮しているように見えるため「獅子堂岩屋」と呼ばれる。「獅子の咆哮は仏の説法と同じ」との仏教の信仰から、この岩屋の前で参拝すると「身につくあらゆる厄災を獅子が食べ尽くし、身を護る」とされる。室町時代には天霧城主香川家の庇護を受け、東院・西院・中尊院と六坊を備えるが、天正の兵火により荒廃。丸亀藩主京極家の帰依により復興を果たす。寺は標高382mの弥谷山の中腹に立つ。山は古来より「仏の山」として信仰され、恐山、臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)と共に日本三大霊場の一つである。全山が霊場、仏の世界であるが、中でも本堂下の水場横にある洞窟は極楽浄土の入口である。洞窟に真言を書いた木札を納め、洞窟から湧き出る霊水で清め願掛けを行う「お水まつり」が毎年春の彼岸に行われる。木札を洗い清めてお供えすると、願掛地蔵によって霊山に住む仏や神に願い事が届けられると伝わる。山門から納経所を兼ねる大師堂兼納経所までは石段を四百段登る。石段の脇には岩山や修験者により刻まれた磨崖仏があちことに点在し、最後の百八段は赤い手すりにすがるように一直線の急坂を登り詰めていく。煩悩の数を一つ一つ消しながら登ると、仏の世界へとたどり着くという意味かも知れない。足の弱い年配の女性が、息も絶え絶え石段を登る姿が目につく。大師堂から本堂までは百七十段あり、途中に護摩堂や権現堂がある。本堂からは三豊平野が一望でき、四国霊場の中でも登りがいのある石段としては大ボス級である。参道の途中には「賽の河原」と呼ばれる暗くて鬱蒼とした谷間がある。死者の呼び声が聞こえる中、幼児が泣き泣き石を積む賽の河原を彷彿させるよう場所である。寺には様々な伝説があり、古くから「死靈の行く寺」と信仰されている。この地方の慣わしでは、家で人が死ぬと手を背中に回し、死靈を背負いながら寺に登り葬る。そして帰りには「決して振り返ってはならない、それは死者を背負って帰ってしまうから」と諌められていた。交通量の多い国道11号線から分岐して僅か数キロほど、坂のすぐ下には賑やかな日帰り温泉施設があるこの地に、まさか死靈の行く寺があるとは思わなかった。

御詠歌 悪人と行き連れなむも弥谷寺 ただかりそめもよき友ぞよき

御本尊 千手観音

真言 おん  ばさら  たらま  きりく