ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

弘法大師の母玉依御前のお寺 香川県多度津町「海岸寺」(その88)

別格第十八番札所 経納山  海岸寺

(きょうのうざん かいがんじ)

住所 仲多度郡多度津町西白方997-1

電話 0877-33-3333

弥谷寺から海岸寺まで

距離  5.4km 標高差  +3m  -110m

弥谷寺から海岸寺まで

寺伝によるとこの地は弘法大師の母である玉依(たまより)御前の出身地で、方亀五年(774)に産屋を設けて大師を出産したと伝わる。大同二年(807)大師がこの産屋後に本堂を建立し、正観音又は弥勒菩薩を安置したのが寺の開創とされる。弘仁六年(816)に大師は四十二歳の厄除けのため再度寺を訪ね、自身の像を刻んで大師堂を建立する。保延五年(1139)の住職観應の時には寺勢盛大をきわめ、楼閣四十余坊軒を連ねるが、天正の兵火で焼失。「仏閣僧坊伽藍等火煙と化し、法器霊宝灰と変ず」との記述が残る。天正十八年(1590)の住職實存の時に寺は再興を果たす。江戸時代中期には「大師の誕生所」と寺が名乗ることを不服とする善通寺との間で争いが勃発。寺社奉行を巻き込んだ騒ぎへと発展し、文化十三年(1816)に嵯峨御所より「善通寺は誕生所で、当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」と裁決される。善通寺は父公の本宅、海岸寺は母公の居られた処と仕分けた結果であり、一応の解決をみる。明治三十八年には裏の海岸にロシア兵捕虜収容所(善通寺俘虜収容所)が造られ、約千名が翌年まで収容されたという、寺としては一風変わった寺歴を有する。大正五年に失火により太子堂他を焼失するが、昭和期に再建され現在に至る。山門の両脇には仁王像の代わりに昭和三十年代に活躍した地元出身力士琴ヶ浜と大豪の像が立っており、ユニークで目を引く。山門から本堂はすぐの所にあり、靴を脱いでお参りをする。本堂から石畳を進むと裏手には穏やかな瀬戸内海が広がる。海から眺める山々が立てかけた屏風の形をしていることから、屏風ヶ浦と呼ばれる。寺の奥の院弘法大師産屋跡と伝わる場所で、大師堂が建つ。本尊は大師真作の稚児大師で、日本で唯一赤ちゃんの姿。両脇に四天王、脇侍に父母の像を擁する。寺の背後にある御盥山(おたらいやま)には広大な「まんだら園」があり、四国八十八箇所と別格二十霊場を合わせた新四国百八箇所の石仏が並び、二重の塔や文殊堂、御盥山不動坊が建つ。山は別名「経納山」と言い、幼少期の大師が法華経を一字一石写経し、その石を納めたという逸話が残る。寺の間口は狭く、県道を走るとうっかり見落としがちであるが、寺域は広大で見どころが多い。大師父方の居である善通寺の賑やかさ、人の多さと比べると、寺はのんびりとした優しい感じが漂う。ガイドブックには「母方に縁のある土地だから」と書いてあったが、まさにそうした趣きのある寺である。八十八霊場を巡るだけではこうした経験は得られず、別格霊場を参拝することでちょうど良いバランスとなる。海岸沿いにある寺はこれより先八十六番札所の志渡寺までなく、海辺をゆっくり散歩してみるのも良いだろう。

御詠歌 せとのきしまなこやひらくかいがんじ よろこびみちぬ身も心にも

御本尊 聖観世音菩薩

真言 おん  あろりきゃ  そわか