ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

智証大師誕生のお寺 香川県善通寺市「金蔵寺」(その93)

第七十六番札所 鶏足山  金倉寺

(けいそくざん  こんぞうじ)

住所 善通寺市金蔵寺町1160

電話 0877-62-0845

善通寺から金倉寺まで

距離  3.4km 標高差  ほぼ平坦

善通寺から金蔵寺まで

縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀五年(774)に智証大師(円珍)の祖父・和気道善が如意輪観音像を刻んで堂宇を建立し、「自在王堂」と名づけたのが寺の開創とされる。智証大師とは弘法大師の甥で、天台寺門宗の開祖である。その後、仁寿元年(851)に道善の子宅成によって寺名が「道善寺」へと改称される。宅成の子が智証大師で、唐から帰朝した智証大師は天安二年(858)、唐の青龍寺にならって伽藍を造営し、薬師如来を刻み本尊とする。智証大師の幼名は日童丸で、子供の頃から神童と称されていた。五歳の時に訶梨帝母(かりていも)が日童丸の前に現れ、仏道修行を守護すると告げたとされる。訶梨帝母とは鬼子母神のことで、もとは鬼神王・般闍迦(はんじゃか)の妻であり鬼女。五百人の子供を育てるために人間の子供をさらい食べていたが、釈迦がその末子を隠し、我が子を失う悲しさと命の大切さを説くと改心。鬼子母神は全ての子供達と釈迦の教えを守ることを誓い、子育てや安産、子供を守護する善神となる。真言宗では訶梨帝母、日蓮宗では鬼子母神と呼ばれ、全国で祀られる訶梨帝母が初めて登場するのが本寺である。智証大師は訶梨帝母の像も併せて刻み、訶梨帝堂を建立する。延長六年(928)醍醐天皇の勅令により、寺の地名である金倉郷にちなんで寺名を「金倉寺」へと改称する。寺はこの頃勢力を極め、寺領は東西二里、南北一里、僧坊百三十二を数えるほどであったが、幾多の兵火により本尊などの宝物以外を焼失。慶長十一年(1606)までは無住寺となるほどであったが、高松藩主の松平家によりに再興を果たす。寺は明治三十一年から三年間、乃木希典善通寺第十一師団長として仮住まいしたことで有名。遺品展示室には乃木希典愛用の軍帽や肖像画、夫人からの 手紙などが保存されている。慶安四年(1651)に建立された大師堂には智証大師像が中央、弘法大師像が右脇陣、神変大菩薩が左脇陣に安置されており、四国八十八霊場の中で弘法大師以外の「大師」を大師堂の中央に祀るのはこの寺のみ。訶梨帝母を祀る訶梨帝堂は別名「おかるてんさん」と呼ばれ、子授け・安産のご利益がある。境内には巡礼七福神が点在しているが、中でも目立つのが黄金像の大黒天。おみくじに付いた金箔を貼って願うと願いが叶うとされる。境内には乃木希典銅像と「乃木将軍妻返しの松」がある。師団長の乃木将軍は単身赴任で、ある日妻の静子が訪ねてくるが、将軍は「帰れ」と一喝。泣く泣く東京へと帰る静子のため、寺が松の木に名を残したと伝わる。寺は広く、堂宇や石像、社などが数多くある。一つ一つ見ていると意外と時間がかかってしまう。この静かな寺に第十一師団を率いる乃木将軍が仮住まいし、また、大正・昭和の日本農民運動史に名を残す金蔵寺事件がこの寺で起きたとはとても想像出来ない。数々の遺蹟を見ても、こうした「激動の時代」ははるか遠い出来事のように感じられる。ロードバイクで日がな参拝できるなんて、つくづく平和な時代に生まれて良かったと思う。時間があればJR善通寺の駅前どおりに立ち寄ってみるがよい。こじんまりとした市の美術館があり、参拝時は運良く、地元高校アニメ部による熱血イラスト作品展を観ることが出来た。

御詠歌 まことにも神仏僧を開くれば 真言加持の不思議なりけり

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか