ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

崇徳上皇の御陵を有するお寺 香川県坂出市「白峯寺」(その99)

第八十一番札所 綾松山  白峯寺

(りょうしょうざん  しろみねじ)

住所 坂出市青海町2635

電話 0877-47−0305

国分寺から白峯寺まで

距離  12.9km 標高差  +312m  -78m

国分寺から白峯寺まで

寺伝によると弘仁六年(815)、白峯山に登った弘法大師が山頂に如意宝珠を埋めて井戸を掘り、衆生済度を祈願する。貞観ニ年(860)、大師の妹の子である智証大師が瑞光に導かれて白峯山に登頂し、地主神である白髪の老翁から御神託を授かる。智証大師は、補陀洛山から流れ着いた光明に輝く霊木で千手観音像を彫造し、これを本尊として佛堂を創建する。保元の乱(1156)に破れ讃岐へ流された崇徳上皇は、都へ帰りたいという思いが叶わぬままこの地で没し、白峰山の稚児嶽上(ちごがたけ)で荼毘に付される。死後、都では天変異変が相次ぎ発生し、人々は上皇の祟りと恐れる。仁安元年(1166)、上皇と親交のあった西行法師が慰霊の為に御廟に参詣する。その際に法師が上皇の霊と歌を詠み交わした話は、上田秋成作「雨月物語」に記されており、中でも西行上皇を慰めた歌「よしや君むかしの玉の床とても  かからむのちは何にかはせむ」は広く知られている。上皇の怒りを恐れる代々の天皇、公卿、武将は御府荘園を寄せて菩提を弔い、種々の霊器宝物を奉納して慰霊の誠を尽す。建久二年(1191)には法華堂が御陵の東に建てられ、応永二十一年(1414)には後小松天皇が法華堂に「頓証寺」の勅額を奉納し、尊崇の意を表する。明治に入ると御陵は寺から宮内省の管轄に移り、明治三年には上知令が出て寺領は境内を残し没収される。崇徳天皇八百年祭に当たる昭和三十九年には、昭和天皇が御陵に勅使を遣わし、式年祭が執り行われている。寺には文化財が多く残され、建造物では十三重石塔ニ基、山門、御成門、勅使門、客殿、勅額門、頓証寺殿、薬師堂、行者堂、阿弥陀堂、本堂、大師堂が、美術品では「頓証寺」の勅額がいずれも国の重要文化財に指定されている。高松藩松平頼重が造営した勅額門と頓証寺殿は装飾、構造共に非常に手が込んでおり、和様を基調とした端正な形式と意匠でまとめらている。天皇、神、仏の三者を一堂で祀る形式は、全国的にも他に類を見ないという。古来より、本尊の千手観世音菩薩は身代わり観音として、白峯大権現(相模坊)は開運招福、商売繁盛、勝負事の神様として、崇徳天皇は悪縁切り、芸事、学問の神様として信仰されている。境内には四国で唯一の天皇墓所である御陵(白峯陵)が隣接し、日本八天狗の一狗である白峯大権現(相模坊)が祀られている。寺には相模坊という天狗にまつわる話が残る。急な来客を受けた和尚の命により豆腐を買いに出かけた小僧は、突然、何者かに背中を押されて空を飛ぶような感覚となる。そして次の瞬間、田舎では見ることない上等な絹豆腐を受け取り、元の場所へと戻る。これは、突然の買い物に走る小僧を気の毒に思った相模坊が小僧を助けたものと今なお語り継がれている。ちなみに、御陵の中で都から離れた場所にあるのは、下関の安徳天皇陵と淡路島の淳仁天皇陵とこの地のみである。また、寺には玉章(たまずさ)の木にまつわる話が伝わる。崇徳上皇がほととぎすの鳴き声に都を偲び、和歌を詠んだところ、ほととぎすはその意を察し、嘴に木の葉を巻いて声を忍び鳴いたといわれる。その巻いた葉が玉章(手紙)に似ているため、ほととぎすの落とし文・玉章と呼ばれ、その葉を懐中すれば必ずよい便りがあると伝わる。現在境内にある木は古の玉章の木を偲んで植樹されたものである。山門を進むと正面に護摩堂、その中に納経所がある。左に曲がり進むと勅額門とその奥に頓証寺殿がある。そこから石段を九十九段登ると本堂と大師堂があり、結構な登りがいである。寺がある五色台は、高松、坂出両市と国分町にまたがる巨大な溶岩台地で、西の白峰に本寺が、東の青峰に次の霊場根来寺がある。五色台とは、密教がいう五つの知恵(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を五体の如来に当てはめた「五智如来」を現すとも言われており、どこか霊場としての雰囲気が全山で漂う。寺は頓証寺殿や白峯陵まで含めると見どころが多く、観光客も多数来訪している。足早に過ぎ去るには惜しい名勝であり、ここは時間をかけて見学するのがお勧め。八十八霊場の中で、皇室・神様・仏様をまとめて勉強できる貴重な場所である。

御詠歌 さむく露白妙の寺のうち 御名をとなうる法のこえごえ

御本尊 千手観音

真言 おん ばさら たらま きりく

 

「鐘がものいうた国分の鐘が」のお寺 香川県高松市「国分寺」(その98)

第八十番札所 白牛山  国分寺

(はくぎゅうざん  こくぶんじ)

住所 高松市国分寺町国分2065

電話 087-874-0033

天皇寺から国分寺まで

距離  6.7km 標高差  ほぼ平坦

天皇寺から国分寺まで

寺は天平の時代、聖武天皇の勅願により一国一寺建立された官寺。寺伝によると行基が丈六の十一面千手観世音菩薩を本尊として刻み、開基したとされる。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修繕して四国霊場と定める。大師は修繕のための霊木を探すと、北の国分台、赤峰の麓で木が空から落ちてきたため、それを刻んだと伝わる。寺にはその残木があるが、何の木か学者も分からないとのこと。天正の兵火で本堂、本尊、鐘楼を除く堂塔のほとんどを焼失するが、江戸時代に入ると、高松藩主生駒家や松平家の庇護を受け再興を果たす。寺域は広く、創建以降の遺構が多数残されている。境内に点在する三十三個の大きな石は創建時の本堂の礎石で、その配置から、同じ頃に建てられた奈良唐招提寺金堂と匹敵する規模と推定される。また、同じく十五個点在する大きな石は七重塔の礎石で、京都東寺の五重塔を超える大塔であったと推定される。本堂は鎌倉時代後期の作で、奈良時代の講堂跡の礎石を利用して建てられている。本尊の木造千手観音立像は平安時代末期の作で、鐘楼とともにこれら三点は国の重要文化財に指定されている。この鐘楼には逸話が残る。江戸時代初期の藩主生駒一正が、この鐘を高松城へ運ぼうとすると異様なほど重く、大勢の人馬が必要となるほどであった。鐘は城に着いた途端に音が鳴らなくなり、城下では悪病が大流行。藩主自身も病に倒れ、夜な夜な枕元に鐘が現れては「もとの国分へいぬ(帰りたい)」とすすり泣く。そこで鐘は寺へと返すことになり、城から運ぼうとすると鐘は急に軽くなり、寺に着いた途端悪病が収まったという。山門をくぐり参道を進むと左に閻魔堂、右に四国最古の釣鐘がある。さらに進んで小さな橋を渡ると正面に本堂が建つ。右手に戻ると納経所があり、遍路用品が並ぶ構内に入ると奥に大師堂拝殿がある。御朱印の記帳を待つお遍路さんが並ぶ傍ら大師堂へと参拝する形となり、何やら落ち着かないが、これも修行の一つ。また、寺は時間に厳しく山門は17時より少し前に閉じられ、参拝者は17時までに全員が裏門からの退出となる。このため、山門へは外壁に沿ってぐるりと回って戻ることとなり、何やら味気なく感じられるが、これもまた修行の一つ。寺には早く来なさいということ。境内は広く、数多くの大きな礎石と立派な松林が印象的で、四国の国分寺の中で寺は一歩抜きん出た威容を誇る。桁行五間、梁間五間の本堂はどっしりとした重厚感を見る人に与える。国分寺跡で国の特別史跡に指定されているのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡だけだという。「鐘がものいうた国分の鐘が  もとの国分へいぬというた」とは有名な民謡だったそうだが、昭和のガイドブックによると「もう歌える人はほとんどいない」とのこと。令和の今もそうなのか、少々気になった。ここらか先は讃岐の山寺巡りが始まるが、寺は五色台・屋島という香川を代表する観光地にある。標高はそれなりだが、徳島や高知の山寺と違って路面には落石も苔もなくとても走りやすい。海あり山ありのワインディングが楽しめ、スーパーカブでビュンビュン飛ばすのが心地よい。

御詠歌 国を分け野山をしのぎ寺々に まいれる人を助けましませ

御本尊 十一面千手観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

 

さすらいの崇徳上皇ゆかりのお寺 香川県坂出市「天皇寺」(その97)

第七十九番札所 金華山  天皇寺

(きんかざん  てんのうじ)

住所 坂出市西庄町天皇1713−2

電話 0877-46−3508

郷照寺から天皇寺まで

距離  6.1km 標高差  ほぼ平坦

郷照寺から天皇寺まで

天平年間(729〜749)に四国巡錫のため当地を訪れた行基は、この山がカナヤマビメとカナヤマヒコの鎮座する山であると感得。山の中腹に薬師如来を本尊とする金山摩尼珠院を建て、山を金山と名付ける。この金山は四国で唯一、アルミニウムの鉱床があることで知られる。弘仁年間(810〜824)には弘法大師がこの地を訪ね、古くから霊泉と知られた八十場(やそば)のほとりに光放つ霊木を見つける。すると一人の天童が空中から現れ、閼伽井(あかい:水のこと)を汲み大師に給仕する。この天童は金山を鎮守する金山権現で、永くこの山の仏法を守護するようにと持っていた宝珠を大師に預ける。大師は霊木で十一面観音菩薩阿弥陀如来愛染明王の三像を刻み、堂宇に安置。宝珠を嶺に埋めて寺名を摩尼珠院妙成就寺と改める。その後、法元元年(1156)、保元の乱に破れ讃岐へと流された崇徳上皇が、末寺の長命寺を行宮とする。流刑の身である上皇は激しい憤りと悲嘆に沈まれ、その様子は「世を呪い御髪も御爪も切らせられずお目陥り悲しげなること天狗のごとし」と伝わる。上皇はこの地で崩御したため、上皇の霊を鎮めるため二条天皇崇徳天皇社を建立。寺は神宮寺(神社に附属する寺院)となり、別名天皇寺と呼ばれるようになる。明治に入ると崇徳院御霊は京都白峰宮へと戻され、上皇を祀ることのない崇徳天皇社は白峰宮へと改称される。また、廃仏毀釈により摩尼珠院は廃寺となるが、筆頭末寺の奇香山仏乗寺を引き継ぐ形で明治二十年に再興を果たし、寺名を天皇寺へと改める。寺には山門がなく、大きな鳥居の左右に小さな鳥居のついた珍しい三輪鳥居をくぐると、正面奥に白峰宮がある。その手前を左に行くと本堂と大師堂、右に行くと本坊と納経所がある。何も知らずに行くと「鳥居があるので、寺は別の場所では」と勘違いし易く、また、境内に入ってもどこが本堂かと最初は戸惑うが、標識どおりに進めば直ぐに見つかる。八十八霊場の中でも境内の狭さは一二を争うほどではないかと思えるほどで、奥の白峰宮を含めどことなく寂しさが漂う。寺はJR予讃線の線路を超え、小高い丘を登るとすぐの距離にある。寺の本尊の十一面観音は水を司る仏様。近くにある予讃線の駅の名は「八十場」。八十場とは「沢山の水が落ちるところ」という意味で、寺から500mほど行くと霊泉「八十蘇場の清水」と地蔵堂がある。今から二千年程前のこと、瀬戸内海に住む悪魚を退治した日本武尊ヤマトタケルノミコト)の部下八十八人が魚の毒気に当たって昏倒。そこへ神童が現れ、この地の水を飲ませたところ全員が正気に戻ったと伝わり、今では香川県の強力なパワースポット。清水屋名物のところてんも楽しめるので、暑い時期には是非立ち寄りたい。

御詠歌 十楽の浮世の中をたずねべし 天皇さえもさすらいぞある

御本尊 十一面観世音菩薩

真言 おん  まか  きゃろにきゃ  そわか

 

二つの法門を奉じる厄除うたづ大師のお寺 香川県宇田津町「郷照寺」(その96)

第七十八番札所 仏光山  郷照寺

(ぶっこうざん  ごうしょうじ)

住所 綾歌郡宇多津町1435

電話 0877-49−0710

道隆寺から郷照寺まで

距離  7.2km 標高差  ほぼ平坦

道隆寺から郷照寺まで

縁起によると寺は神亀ニ年(725)、行基により開創されたと伝わる。行基は一尺八寸の阿弥陀如来像を刻んで本尊として安置し、仏光山道場寺と称する。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのはその名残である。大同ニ年(807)、弘法大師が四国巡錫の際、寺が仏法有縁の地であると感得。大師自身の像を彫造して厄除けの誓願を行う。この大師像は「厄除うたづ大師」として今も篤く信仰されている。寺は高僧・名僧との由縁も深く、仁寿年間(851〜54)には京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師が寺で修行し、寛和年間(985〜87)には浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都が寺に釈迦如来の絵を奉納して釈迦堂を建立する。また、仁治四年(1243)には「南海流浪記」の著者で中院流の祖である高野山の道範阿闇梨が配流となった際に寺を仮寓とし、正応元年(1288)には時宗の開祖・一遍上人が逗留。踊り念仏の道場を開いて易行・浄土教の教えを広めたことから、寺は真言時宗のニ教の法門が伝わることとなる。その後、元亀・天正の兵火で伽藍が焼失するが、寛文四年(1664)に高松藩松平頼重により再興。その際に真言宗と共に時宗を奉持し、寺名を郷照寺へと改める。真言宗時宗の二つの法門を伝える寺は四国霊場の中で唯一である。本堂の天井には大師堂と共に草花の浮彫画が彩られている。境内にある庚申堂は「庚申信仰」を伝えるお堂。本尊には六本の手を持つ青面金剛が祀られ、病魔を除く霊験があるとされる。また、寺には万体観音堂と呼ばれる地下回廊があり、大師堂の左前から洞窟に降りると一万体のミニ観音像が安置されている。一つ一つの像には信徒の願いが込められ、薄暗い堂内には独特の雰囲気が漂う。魔界への入口かと思えるような場所である。寺は宇多津町の南、青野山の麓の高台に建ち、境内からは手前に鐘楼、その向こうに宇多津の街並みと瀬戸大橋がきれいに見える。昭和時代のガイドブックには「廃止となった塩田が見渡せる」とあり、この地はかつて塩の生産が盛んであった。また、港はかつては讃岐一番の船着き場であり、本州からの人の往来も多かったという。令和三年の正月はコロナ禍で分散参拝となったが、香川県内の参拝者を見ると善通寺が8.0万人(対前年比68%減)、郷照寺が9.6万人(50%減)、八栗寺が7.0万人(50%減)、与多寺が8.0万人(30%減)となっており、厄除け祈祷の由縁からか、それとも地元の篤い信仰なる由縁かは分からないが、寺は県内一の賑わいを見せたようである。道隆寺からは県道を一直線、丸亀、宇多津の町中を進む。商店や工場が立ち並び、走っていてもあまり面白くはないが、地元の高校生がにぎやかに歩いているのを見ると、ペダルを回す足も少し軽くなったような気がする。

御詠歌 踊りはね念仏申す道場寺 拍子をそろえ鉦を打つなり

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていぜい  からうん

 

眼なおし薬師のお寺 香川県多度津町「道隆寺」(その95)

第七十七番札所 桑多山  道隆寺

(そうたざん  どうりゅうじ)

住所 仲多度郡多度津町北鴨1−3−30

電話 0877-32−3577

神野寺から道隆寺まで

距離  17.2km 標高差  ほぼ平坦

神野寺から道隆寺まで

縁起によると、和銅五年(715)、この地方の領主和気道隆が、周囲5m近い桑の大木が夜ごと妖しい光を放っているのを見る。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴が聞こえ乳母が倒れて死んでいた。これを嘆き悲しんだ道隆がその桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造。草堂に安置し、供養したのが寺の始まりとされる。不思議なことに、この乳母は供養が終わると生き返ったという。大同ニ年(807)、道隆の子・朝祐の懇願により、唐から帰朝した弘法大師薬師如来像を彫造。道隆が造った像を胎内に納めて本尊とする。朝祐は大師から授戒を受けて第ニ世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立。寺名を父の名から「道隆寺」と号する。第三世住職は弘法大師実弟にあたる真雅僧正(法光大師)、第四世住職は円珍(智証大師)。円珍五大明王と聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立。高僧が相次ぎ寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や康平三年(1060)の兵火、天正の兵火に遭うなど寺は興亡をくり返す。寺は山門を入ると一番奥に本堂があり、その手前の大師堂、納経所がある。小さい祠が多く見られ、本堂を取り巻くように点在している。寺は「眼なおし薬師」として知られる。境内左奥にある潜徳院御堂は江戸時代後期の丸亀藩典医、京極左馬造の墓所である。左馬造は盲目だったが、薬師如来の霊験で視力が回復し、御典医として活躍したという。眼病の平癒祈願に多くの人が訪れ、「目」と書いた札を奉納する。寺宝である鎌倉時代の絹本著色「星曼荼羅図」は国指定重要文化財に指定。星曼荼羅とは北極星や北斗七星などを表した図象画で、星の供養することで天変地異や疫病などの災いを払おうとするもの。寺の境内にある妙見社では、毎年三月七日と八日に星供養が行われる。寺は多度津町の町中にあるが、山門をくぐるとブロンズの観音像がずらりと並んで迎えてくれる。西国三十三箇所坂東三十三箇所秩父三十四箇所の百観音のほか、各地の観音像が全部で二百五十五体祀られているという。境内には衛門三郎・大師像や、なでると健康で長寿になれる寿老人像もあり、賑やかで開放的な寺である。多度津は昔から交通の要所で、予讃線土讃線の分岐点である。このため駅には全ての特急列車が停まるが、駅前の商店街は少々寂しい。讃岐うどんの店は各所に点在するので、気楽にポタリングしながら探すのがよい。

御詠歌 ねがいをば 仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

満濃大師が静かに湖畔を見下ろすお寺 香川県まんのう町「神野寺」(その94)

別格第十七番札所 五穀山  神野寺

(ごこくざん  かんのじ)

住所 仲多度郡まんのう町神野字神野45−12

電話 0877−75−0875

金倉寺から神野寺まで

距離  13.5km 標高差  +151m  -8m

金倉時から神野寺まで

縁起によると、弘仁十二年(821)に弘法大師嵯峨天皇の勅命により満濃池の修築を行った際、池の守護として建立したのが寺の始まりとされる。池の修築に係る由来は第七十四番札所甲山寺で記したのでここでは省略するが、甲山寺と同様、寺の建立費用は朝廷から授かった報奨金で賄ったとされる。中世時代には寺は当地の豪族である矢原家の保護を受けて隆盛し、一時は広大な寺域を誇っていたが、天正九年(1581)長宗我部元親が矢原家を攻めた際の兵火により全焼。その後、長きにわたり廃寺となっていたが、昭和九年に弘法大師一千百年御遠忌の記念事業として堂宇が再建。昭和三十年には満濃池堤防のかさ上げ工事により現在地へと移転される。境内はいたって狭く、本堂以外に目立った建物もないが、一段高いところにある弘法大師像の前に立つと巨大な満濃池が眼下に広がるため、清々しい開放感が楽しめる。弘法大師像は別名「満濃大師」と呼ばれ、高さ3.3mの銅像である。寺には大師堂がないため、お遍路さんは本堂の次にこの満濃大師を参拝することとなる。寺には大師の不思議話もなければ、恐ろしい縁起も伝承もなく、ごくごく普通の寺である。そのせいか、寺には八十八霊場とは異なる、どこか親しみやすい素朴さ感じる。子供の頃に遊んだ田舎の寺のようである。かりんののど飴が寺で売られていたが、まんのう町は日本有数のかりんの名産地。池の堤防では日曜祭日にかりん市が開かれる。金倉寺からは一直線の道を南下するが、途中には讃岐うどんの店が多く見られ、どこに寄ろうか迷いがち。ぶらっと立ち寄るか、下調べして目指すかは個人の好き好きだが、どちらでも楽しめると思う。さすがに讃岐うどんの本場である。

御詠歌 ちまちだにいまもそそぎてのりのしの 恵みあふるる満濃の大池

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

智証大師誕生のお寺 香川県善通寺市「金蔵寺」(その93)

第七十六番札所 鶏足山  金倉寺

(けいそくざん  こんぞうじ)

住所 善通寺市金蔵寺町1160

電話 0877-62-0845

善通寺から金倉寺まで

距離  3.4km 標高差  ほぼ平坦

善通寺から金蔵寺まで

縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀五年(774)に智証大師(円珍)の祖父・和気道善が如意輪観音像を刻んで堂宇を建立し、「自在王堂」と名づけたのが寺の開創とされる。智証大師とは弘法大師の甥で、天台寺門宗の開祖である。その後、仁寿元年(851)に道善の子宅成によって寺名が「道善寺」へと改称される。宅成の子が智証大師で、唐から帰朝した智証大師は天安二年(858)、唐の青龍寺にならって伽藍を造営し、薬師如来を刻み本尊とする。智証大師の幼名は日童丸で、子供の頃から神童と称されていた。五歳の時に訶梨帝母(かりていも)が日童丸の前に現れ、仏道修行を守護すると告げたとされる。訶梨帝母とは鬼子母神のことで、もとは鬼神王・般闍迦(はんじゃか)の妻であり鬼女。五百人の子供を育てるために人間の子供をさらい食べていたが、釈迦がその末子を隠し、我が子を失う悲しさと命の大切さを説くと改心。鬼子母神は全ての子供達と釈迦の教えを守ることを誓い、子育てや安産、子供を守護する善神となる。真言宗では訶梨帝母、日蓮宗では鬼子母神と呼ばれ、全国で祀られる訶梨帝母が初めて登場するのが本寺である。智証大師は訶梨帝母の像も併せて刻み、訶梨帝堂を建立する。延長六年(928)醍醐天皇の勅令により、寺の地名である金倉郷にちなんで寺名を「金倉寺」へと改称する。寺はこの頃勢力を極め、寺領は東西二里、南北一里、僧坊百三十二を数えるほどであったが、幾多の兵火により本尊などの宝物以外を焼失。慶長十一年(1606)までは無住寺となるほどであったが、高松藩主の松平家によりに再興を果たす。寺は明治三十一年から三年間、乃木希典善通寺第十一師団長として仮住まいしたことで有名。遺品展示室には乃木希典愛用の軍帽や肖像画、夫人からの 手紙などが保存されている。慶安四年(1651)に建立された大師堂には智証大師像が中央、弘法大師像が右脇陣、神変大菩薩が左脇陣に安置されており、四国八十八霊場の中で弘法大師以外の「大師」を大師堂の中央に祀るのはこの寺のみ。訶梨帝母を祀る訶梨帝堂は別名「おかるてんさん」と呼ばれ、子授け・安産のご利益がある。境内には巡礼七福神が点在しているが、中でも目立つのが黄金像の大黒天。おみくじに付いた金箔を貼って願うと願いが叶うとされる。境内には乃木希典銅像と「乃木将軍妻返しの松」がある。師団長の乃木将軍は単身赴任で、ある日妻の静子が訪ねてくるが、将軍は「帰れ」と一喝。泣く泣く東京へと帰る静子のため、寺が松の木に名を残したと伝わる。寺は広く、堂宇や石像、社などが数多くある。一つ一つ見ていると意外と時間がかかってしまう。この静かな寺に第十一師団を率いる乃木将軍が仮住まいし、また、大正・昭和の日本農民運動史に名を残す金蔵寺事件がこの寺で起きたとはとても想像出来ない。数々の遺蹟を見ても、こうした「激動の時代」ははるか遠い出来事のように感じられる。ロードバイクで日がな参拝できるなんて、つくづく平和な時代に生まれて良かったと思う。時間があればJR善通寺の駅前どおりに立ち寄ってみるがよい。こじんまりとした市の美術館があり、参拝時は運良く、地元高校アニメ部による熱血イラスト作品展を観ることが出来た。

御詠歌 まことにも神仏僧を開くれば 真言加持の不思議なりけり

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか