ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

「鐘がものいうた国分の鐘が」のお寺 香川県高松市「国分寺」(その98)

第八十番札所 白牛山  国分寺

(はくぎゅうざん  こくぶんじ)

住所 高松市国分寺町国分2065

電話 087-874-0033

天皇寺から国分寺まで

距離  6.7km 標高差  ほぼ平坦

天皇寺から国分寺まで

寺は天平の時代、聖武天皇の勅願により一国一寺建立された官寺。寺伝によると行基が丈六の十一面千手観世音菩薩を本尊として刻み、開基したとされる。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修繕して四国霊場と定める。大師は修繕のための霊木を探すと、北の国分台、赤峰の麓で木が空から落ちてきたため、それを刻んだと伝わる。寺にはその残木があるが、何の木か学者も分からないとのこと。天正の兵火で本堂、本尊、鐘楼を除く堂塔のほとんどを焼失するが、江戸時代に入ると、高松藩主生駒家や松平家の庇護を受け再興を果たす。寺域は広く、創建以降の遺構が多数残されている。境内に点在する三十三個の大きな石は創建時の本堂の礎石で、その配置から、同じ頃に建てられた奈良唐招提寺金堂と匹敵する規模と推定される。また、同じく十五個点在する大きな石は七重塔の礎石で、京都東寺の五重塔を超える大塔であったと推定される。本堂は鎌倉時代後期の作で、奈良時代の講堂跡の礎石を利用して建てられている。本尊の木造千手観音立像は平安時代末期の作で、鐘楼とともにこれら三点は国の重要文化財に指定されている。この鐘楼には逸話が残る。江戸時代初期の藩主生駒一正が、この鐘を高松城へ運ぼうとすると異様なほど重く、大勢の人馬が必要となるほどであった。鐘は城に着いた途端に音が鳴らなくなり、城下では悪病が大流行。藩主自身も病に倒れ、夜な夜な枕元に鐘が現れては「もとの国分へいぬ(帰りたい)」とすすり泣く。そこで鐘は寺へと返すことになり、城から運ぼうとすると鐘は急に軽くなり、寺に着いた途端悪病が収まったという。山門をくぐり参道を進むと左に閻魔堂、右に四国最古の釣鐘がある。さらに進んで小さな橋を渡ると正面に本堂が建つ。右手に戻ると納経所があり、遍路用品が並ぶ構内に入ると奥に大師堂拝殿がある。御朱印の記帳を待つお遍路さんが並ぶ傍ら大師堂へと参拝する形となり、何やら落ち着かないが、これも修行の一つ。また、寺は時間に厳しく山門は17時より少し前に閉じられ、参拝者は17時までに全員が裏門からの退出となる。このため、山門へは外壁に沿ってぐるりと回って戻ることとなり、何やら味気なく感じられるが、これもまた修行の一つ。寺には早く来なさいということ。境内は広く、数多くの大きな礎石と立派な松林が印象的で、四国の国分寺の中で寺は一歩抜きん出た威容を誇る。桁行五間、梁間五間の本堂はどっしりとした重厚感を見る人に与える。国分寺跡で国の特別史跡に指定されているのは、当寺の他に遠江国分寺跡と常陸国分寺跡だけだという。「鐘がものいうた国分の鐘が  もとの国分へいぬというた」とは有名な民謡だったそうだが、昭和のガイドブックによると「もう歌える人はほとんどいない」とのこと。令和の今もそうなのか、少々気になった。ここらか先は讃岐の山寺巡りが始まるが、寺は五色台・屋島という香川を代表する観光地にある。標高はそれなりだが、徳島や高知の山寺と違って路面には落石も苔もなくとても走りやすい。海あり山ありのワインディングが楽しめ、スーパーカブでビュンビュン飛ばすのが心地よい。

御詠歌 国を分け野山をしのぎ寺々に まいれる人を助けましませ

御本尊 十一面千手観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく