ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

二つの法門を奉じる厄除うたづ大師のお寺 香川県宇田津町「郷照寺」(その96)

第七十八番札所 仏光山  郷照寺

(ぶっこうざん  ごうしょうじ)

住所 綾歌郡宇多津町1435

電話 0877-49−0710

道隆寺から郷照寺まで

距離  7.2km 標高差  ほぼ平坦

道隆寺から郷照寺まで

縁起によると寺は神亀ニ年(725)、行基により開創されたと伝わる。行基は一尺八寸の阿弥陀如来像を刻んで本尊として安置し、仏光山道場寺と称する。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのはその名残である。大同ニ年(807)、弘法大師が四国巡錫の際、寺が仏法有縁の地であると感得。大師自身の像を彫造して厄除けの誓願を行う。この大師像は「厄除うたづ大師」として今も篤く信仰されている。寺は高僧・名僧との由縁も深く、仁寿年間(851〜54)には京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師が寺で修行し、寛和年間(985〜87)には浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都が寺に釈迦如来の絵を奉納して釈迦堂を建立する。また、仁治四年(1243)には「南海流浪記」の著者で中院流の祖である高野山の道範阿闇梨が配流となった際に寺を仮寓とし、正応元年(1288)には時宗の開祖・一遍上人が逗留。踊り念仏の道場を開いて易行・浄土教の教えを広めたことから、寺は真言時宗のニ教の法門が伝わることとなる。その後、元亀・天正の兵火で伽藍が焼失するが、寛文四年(1664)に高松藩松平頼重により再興。その際に真言宗と共に時宗を奉持し、寺名を郷照寺へと改める。真言宗時宗の二つの法門を伝える寺は四国霊場の中で唯一である。本堂の天井には大師堂と共に草花の浮彫画が彩られている。境内にある庚申堂は「庚申信仰」を伝えるお堂。本尊には六本の手を持つ青面金剛が祀られ、病魔を除く霊験があるとされる。また、寺には万体観音堂と呼ばれる地下回廊があり、大師堂の左前から洞窟に降りると一万体のミニ観音像が安置されている。一つ一つの像には信徒の願いが込められ、薄暗い堂内には独特の雰囲気が漂う。魔界への入口かと思えるような場所である。寺は宇多津町の南、青野山の麓の高台に建ち、境内からは手前に鐘楼、その向こうに宇多津の街並みと瀬戸大橋がきれいに見える。昭和時代のガイドブックには「廃止となった塩田が見渡せる」とあり、この地はかつて塩の生産が盛んであった。また、港はかつては讃岐一番の船着き場であり、本州からの人の往来も多かったという。令和三年の正月はコロナ禍で分散参拝となったが、香川県内の参拝者を見ると善通寺が8.0万人(対前年比68%減)、郷照寺が9.6万人(50%減)、八栗寺が7.0万人(50%減)、与多寺が8.0万人(30%減)となっており、厄除け祈祷の由縁からか、それとも地元の篤い信仰なる由縁かは分からないが、寺は県内一の賑わいを見せたようである。道隆寺からは県道を一直線、丸亀、宇多津の町中を進む。商店や工場が立ち並び、走っていてもあまり面白くはないが、地元の高校生がにぎやかに歩いているのを見ると、ペダルを回す足も少し軽くなったような気がする。

御詠歌 踊りはね念仏申す道場寺 拍子をそろえ鉦を打つなり

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていぜい  からうん

 

眼なおし薬師のお寺 香川県多度津町「道隆寺」(その95)

第七十七番札所 桑多山  道隆寺

(そうたざん  どうりゅうじ)

住所 仲多度郡多度津町北鴨1−3−30

電話 0877-32−3577

神野寺から道隆寺まで

距離  17.2km 標高差  ほぼ平坦

神野寺から道隆寺まで

縁起によると、和銅五年(715)、この地方の領主和気道隆が、周囲5m近い桑の大木が夜ごと妖しい光を放っているのを見る。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴が聞こえ乳母が倒れて死んでいた。これを嘆き悲しんだ道隆がその桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造。草堂に安置し、供養したのが寺の始まりとされる。不思議なことに、この乳母は供養が終わると生き返ったという。大同ニ年(807)、道隆の子・朝祐の懇願により、唐から帰朝した弘法大師薬師如来像を彫造。道隆が造った像を胎内に納めて本尊とする。朝祐は大師から授戒を受けて第ニ世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立。寺名を父の名から「道隆寺」と号する。第三世住職は弘法大師実弟にあたる真雅僧正(法光大師)、第四世住職は円珍(智証大師)。円珍五大明王と聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立。高僧が相次ぎ寺勢は栄えたが、貞元年間(976〜78)の大地震による堂塔の倒壊や康平三年(1060)の兵火、天正の兵火に遭うなど寺は興亡をくり返す。寺は山門を入ると一番奥に本堂があり、その手前の大師堂、納経所がある。小さい祠が多く見られ、本堂を取り巻くように点在している。寺は「眼なおし薬師」として知られる。境内左奥にある潜徳院御堂は江戸時代後期の丸亀藩典医、京極左馬造の墓所である。左馬造は盲目だったが、薬師如来の霊験で視力が回復し、御典医として活躍したという。眼病の平癒祈願に多くの人が訪れ、「目」と書いた札を奉納する。寺宝である鎌倉時代の絹本著色「星曼荼羅図」は国指定重要文化財に指定。星曼荼羅とは北極星や北斗七星などを表した図象画で、星の供養することで天変地異や疫病などの災いを払おうとするもの。寺の境内にある妙見社では、毎年三月七日と八日に星供養が行われる。寺は多度津町の町中にあるが、山門をくぐるとブロンズの観音像がずらりと並んで迎えてくれる。西国三十三箇所坂東三十三箇所秩父三十四箇所の百観音のほか、各地の観音像が全部で二百五十五体祀られているという。境内には衛門三郎・大師像や、なでると健康で長寿になれる寿老人像もあり、賑やかで開放的な寺である。多度津は昔から交通の要所で、予讃線土讃線の分岐点である。このため駅には全ての特急列車が停まるが、駅前の商店街は少々寂しい。讃岐うどんの店は各所に点在するので、気楽にポタリングしながら探すのがよい。

御詠歌 ねがいをば 仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

満濃大師が静かに湖畔を見下ろすお寺 香川県まんのう町「神野寺」(その94)

別格第十七番札所 五穀山  神野寺

(ごこくざん  かんのじ)

住所 仲多度郡まんのう町神野字神野45−12

電話 0877−75−0875

金倉寺から神野寺まで

距離  13.5km 標高差  +151m  -8m

金倉時から神野寺まで

縁起によると、弘仁十二年(821)に弘法大師嵯峨天皇の勅命により満濃池の修築を行った際、池の守護として建立したのが寺の始まりとされる。池の修築に係る由来は第七十四番札所甲山寺で記したのでここでは省略するが、甲山寺と同様、寺の建立費用は朝廷から授かった報奨金で賄ったとされる。中世時代には寺は当地の豪族である矢原家の保護を受けて隆盛し、一時は広大な寺域を誇っていたが、天正九年(1581)長宗我部元親が矢原家を攻めた際の兵火により全焼。その後、長きにわたり廃寺となっていたが、昭和九年に弘法大師一千百年御遠忌の記念事業として堂宇が再建。昭和三十年には満濃池堤防のかさ上げ工事により現在地へと移転される。境内はいたって狭く、本堂以外に目立った建物もないが、一段高いところにある弘法大師像の前に立つと巨大な満濃池が眼下に広がるため、清々しい開放感が楽しめる。弘法大師像は別名「満濃大師」と呼ばれ、高さ3.3mの銅像である。寺には大師堂がないため、お遍路さんは本堂の次にこの満濃大師を参拝することとなる。寺には大師の不思議話もなければ、恐ろしい縁起も伝承もなく、ごくごく普通の寺である。そのせいか、寺には八十八霊場とは異なる、どこか親しみやすい素朴さ感じる。子供の頃に遊んだ田舎の寺のようである。かりんののど飴が寺で売られていたが、まんのう町は日本有数のかりんの名産地。池の堤防では日曜祭日にかりん市が開かれる。金倉寺からは一直線の道を南下するが、途中には讃岐うどんの店が多く見られ、どこに寄ろうか迷いがち。ぶらっと立ち寄るか、下調べして目指すかは個人の好き好きだが、どちらでも楽しめると思う。さすがに讃岐うどんの本場である。

御詠歌 ちまちだにいまもそそぎてのりのしの 恵みあふるる満濃の大池

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

智証大師誕生のお寺 香川県善通寺市「金蔵寺」(その93)

第七十六番札所 鶏足山  金倉寺

(けいそくざん  こんぞうじ)

住所 善通寺市金蔵寺町1160

電話 0877-62-0845

善通寺から金倉寺まで

距離  3.4km 標高差  ほぼ平坦

善通寺から金蔵寺まで

縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀五年(774)に智証大師(円珍)の祖父・和気道善が如意輪観音像を刻んで堂宇を建立し、「自在王堂」と名づけたのが寺の開創とされる。智証大師とは弘法大師の甥で、天台寺門宗の開祖である。その後、仁寿元年(851)に道善の子宅成によって寺名が「道善寺」へと改称される。宅成の子が智証大師で、唐から帰朝した智証大師は天安二年(858)、唐の青龍寺にならって伽藍を造営し、薬師如来を刻み本尊とする。智証大師の幼名は日童丸で、子供の頃から神童と称されていた。五歳の時に訶梨帝母(かりていも)が日童丸の前に現れ、仏道修行を守護すると告げたとされる。訶梨帝母とは鬼子母神のことで、もとは鬼神王・般闍迦(はんじゃか)の妻であり鬼女。五百人の子供を育てるために人間の子供をさらい食べていたが、釈迦がその末子を隠し、我が子を失う悲しさと命の大切さを説くと改心。鬼子母神は全ての子供達と釈迦の教えを守ることを誓い、子育てや安産、子供を守護する善神となる。真言宗では訶梨帝母、日蓮宗では鬼子母神と呼ばれ、全国で祀られる訶梨帝母が初めて登場するのが本寺である。智証大師は訶梨帝母の像も併せて刻み、訶梨帝堂を建立する。延長六年(928)醍醐天皇の勅令により、寺の地名である金倉郷にちなんで寺名を「金倉寺」へと改称する。寺はこの頃勢力を極め、寺領は東西二里、南北一里、僧坊百三十二を数えるほどであったが、幾多の兵火により本尊などの宝物以外を焼失。慶長十一年(1606)までは無住寺となるほどであったが、高松藩主の松平家によりに再興を果たす。寺は明治三十一年から三年間、乃木希典善通寺第十一師団長として仮住まいしたことで有名。遺品展示室には乃木希典愛用の軍帽や肖像画、夫人からの 手紙などが保存されている。慶安四年(1651)に建立された大師堂には智証大師像が中央、弘法大師像が右脇陣、神変大菩薩が左脇陣に安置されており、四国八十八霊場の中で弘法大師以外の「大師」を大師堂の中央に祀るのはこの寺のみ。訶梨帝母を祀る訶梨帝堂は別名「おかるてんさん」と呼ばれ、子授け・安産のご利益がある。境内には巡礼七福神が点在しているが、中でも目立つのが黄金像の大黒天。おみくじに付いた金箔を貼って願うと願いが叶うとされる。境内には乃木希典銅像と「乃木将軍妻返しの松」がある。師団長の乃木将軍は単身赴任で、ある日妻の静子が訪ねてくるが、将軍は「帰れ」と一喝。泣く泣く東京へと帰る静子のため、寺が松の木に名を残したと伝わる。寺は広く、堂宇や石像、社などが数多くある。一つ一つ見ていると意外と時間がかかってしまう。この静かな寺に第十一師団を率いる乃木将軍が仮住まいし、また、大正・昭和の日本農民運動史に名を残す金蔵寺事件がこの寺で起きたとはとても想像出来ない。数々の遺蹟を見ても、こうした「激動の時代」ははるか遠い出来事のように感じられる。ロードバイクで日がな参拝できるなんて、つくづく平和な時代に生まれて良かったと思う。時間があればJR善通寺の駅前どおりに立ち寄ってみるがよい。こじんまりとした市の美術館があり、参拝時は運良く、地元高校アニメ部による熱血イラスト作品展を観ることが出来た。

御詠歌 まことにも神仏僧を開くれば 真言加持の不思議なりけり

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

大師生誕の地に建つお寺 香川県善通寺市「善通寺」(その92)

第七十五番札所 五岳山  善通寺

(ごがくざん  ぜんつうじ)

住所 善通寺市善通寺町3-3-1

電話 0877-62-0111

甲山寺から善通寺まで

距離  1.6km 標高差  ほぼ平坦

甲山寺から善通寺まで

唐から帰朝した弘法大師が先祖の菩提を弔うため、地元の豪族であった父・佐伯田公が寄進した四町四方の地に、師である恵果和尚の住した長安青龍寺を模して建立したのが寺の始まりとされる。大同ニ年(807)に斧始めを行い、六年近い歳月をかけて金堂、講堂、法花堂など十五堂宇を建立する。寺名は父の諱(いみな:現在の戒名に相当)「善通」をとって「善通寺」と称する。山号の五岳山は、香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山の五つの山の麓にあることに由来する。平安時代後期には弘法大師信仰が全国で広まり、鎌倉時代には天皇上皇からの庇護や荘園の寄進を受け寺勢を拡大する。永禄元年(1558)三好軍の兵火に遭い伽藍が焼失するが、讃岐国城主の生駒家の寄進を受け復興。その後は高松松平家、丸亀京極家らの庇護を受け大いに発展する。鎌倉時代には大師誕生の地である佐伯家の邸宅跡に「誕生院」が建立され、江戸時代までは善通寺と誕生院のそれぞれに住職を置く別々の寺であったが、明治時代には善通寺として一つの寺となる。東京ドームとほぼ同面積と言われる広大な境内は、堀と公道をはさんで「伽藍」と称される東院と「誕生院」と称される西院に分かれる。東院には、日露戦争の戦勝を記念して再建された南大門、元禄十二年(1699)に再建された金堂、高さ43mの五重塔、江戸時代作の釈迦如来坐像を拝顔できる釈迦堂などがあり、一方の西院には南北朝時代作の金剛力士像が睨みをきかせる仁王門、弘法大師の御誕生所とされる佐伯家の邸宅跡に建つ御影堂(大師堂)、空海が誕生の折に産湯として用いられた井戸(産湯井)、多くの寺宝が展示された宝物館などがある。 特に宝物館には、大師の書とされる国宝の一字一仏法華経序品や唐から持ち帰ったとされる同じく国宝の金銅錫杖頭、国の重要文化財である吉祥天立像、地蔵菩薩立像などが収蔵されている。本尊の薬師如来坐像は像高3mにも及ぶ巨像で、元禄十三年(1700)に御室大仏師北川運長により造像されたもの。御影堂の地下には約百mの「戒壇めぐり」があり、暗闇の中御宝号を唱えながら大師と結縁する道場となっている。境内には大師誕生の頃から繁茂していたと伝わる楠の大木がある。寺は和歌山の高野山、京都の東寺とともに、弘法大師三大霊場の一つであり、真言宗善通寺派の総本山。境内はとにかく広く、土産物屋も立ち並んで見どころが満載。観光客も多く、かつて修学旅行で訪れた京都や奈良の有名寺院に突然やってきたような感じである。十二月に参拝した際には寺がウオークラリーのゴールとなっており、運営スタッフとともに境内はごった返していた。とは言え、出場者に振る舞われた豚汁のお裾分けを頂いたので、寒風吹きすさぶなか身も心もほっかほか。寺は荘厳たる大師生誕の地であり、そうした雰囲気を味わうのであれば、観光客の少ない朝晩を狙うのがお勧め。時間に余裕を持って参拝するのが良い。

御詠歌 我すまばよもきえはてじ善通寺 ふかきちかいの法のともしび

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

満濃池の修築を果たしたウサギのお寺 香川県善光寺市「甲山寺」(その91)

第七十四番札所 医王山  甲山寺

(いおうざん  こうやまじ)

住所 善通寺市弘田町1765-1

電話 0877-63-0074

出釈迦寺から甲山寺まで

距離  2.7km 標高差  ほぼ平坦

出釈迦寺から甲山寺まで

平安時代初期、弘法大師善通寺曼荼羅寺の間に伽藍を建立する霊地を探していると、甲山の麓の岩窟から一人の老人が現れる。老人は「私は昔からここに住み、人々に幸福と利益を与え、仏の教えを広めてきた聖者だ。ここに寺を建立すれば私がいつまでも守護しよう」と言い立ち去る。老人がこの地の守護、毘沙門天の化身と悟った大師は、岩を割って毘沙門天像を刻み、岩窟に安置。堂宇を建立して像を祀ったのが寺の起源とされる。その後大師は、「満濃池」を修築する別当嵯峨天皇より任じられ、弘仁十二年(821)に再びこの地を訪ねる。「満濃池」は寺から南東に10kmほど下ったところにある日本最大のため池。八世紀初めに国司の道守朝臣が築造するが、たびたび決壊して付近の田畑に被害を与えていた。度々修復を試みるが、規模が大きすぎて人夫が足りず、朝廷が派遣した築池使さえも完成を見ることのない難工事であった。任に着いた大師は、甲山の岩窟で薬師如来像を刻んで修法し、工事の成功を祈願する。すると大師の徳を慕う数万人の農民が集まり、力を合わせて僅か三箇月で工事を成し遂げたという。朝廷はこの功績を称え、金二万銭を大師に与える。その一部は寺の建立に充てられ、刻まれた薬師如来は本尊として寺に安置される。大師は、山の形が毘沙門天の甲冑に似ていることから寺を「甲山寺」と名づける。天正の兵火により本尊と僅かの寺宝を残して焼失。その荒廃ぶりは「四国徧礼霊場記(1689)」に「むかし大伽藍の所といえども荒涼せり」と記されるほどであったが、その後本堂、大師堂が順次再建されて再興を果たす。本堂に安置された薬師如来像は高さ二尺五寸のヒノキの一木造り。大師堂の左手には奥行12mほど岩窟があり、毘沙門天像が祀られている。大師堂へ続く石段の隣には子安地蔵がある。子宝を願いながらお地蔵様の前掛けを持ち帰り、叶うと新しい前掛けをお地蔵様に納めるという習わしが今に残されている。薬師如来の脇侍である月光菩薩が左手に持つ月の中には、ウサギが描かれている。このことにちなみ、境内の各所には様々な表情をしたウサギが造られており、寺は別名「ウサギのお寺」と呼ばれる。ウサギは大門と中門、茶堂の瓦の上などに十六羽いて、正面をじっと見据えていたり跳びはねていたりと愛嬌のある姿を見せている。中でも、中門の上に立つウサギ瓦は江戸時代末期の作とのことで、その古さに驚かされる。納経所ではウサギの姿をデザインしたお守りやおみくじなども販売されており、ウサギ好きの方にはたまらないと思う。寺は緑豊かな甲山を背に、白壁に囲まれ建っている。境内がこじんまりとしているせいか、山が西側から覆いかぶさっているように見える。寺名そのままの雰囲気である。書いていて気づいたが、前々の曼荼羅寺から甲山寺までは、電話番号が番号順に並んでいて面白い。この辺りは大師が誕生し、幼少期を過ごしたという「御大師様のファン」にとって聖地とも言える場所。市内五寺はそれぞれが近いので、地元の讃岐うどんで腹ごなししながらロードバイクでのんびり回るのが良い。

御詠歌 十二神味方に持てる戦には おのれとこころ甲やまかな

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

 

大師七歳にて仏門を目指し捨身を決意したお寺 香川県善通寺市「出釈迦寺」(その90)

第七十三番札所 我拝師山  出釈迦寺

(がはいしざん  しゅっしゃかじ)

住所 善通寺市吉原町1091

電話 0877-63-0073

曼荼羅寺から出釈迦寺まで

距離  0.6km 標高差  +47m  -0m

曼荼羅寺から出釈迦寺まで

弘法大師がまだ「真魚」と呼ばれていた七歳の時。当時は倭斬濃山(わしのやま)と呼ばれていた我拝師山に大師は登り、「我は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救わん。我が願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じる。すると紫雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り大師を抱き止め、「一生成仏」と告げる。願いが叶った大師は、青年になると再びこの地を訪れ、釈迦如来の姿を刻んで本尊として安置。堂宇を建立して出釈迦寺と名付け、山名を我拝師山へと改め寺の山号とする。大師が身を投げた断崖は「捨身ヶ嶽(しゃしんがたけ)」と呼ばれ、境内から急坂を50分ほど上がった場所にある。元は札所であったが、今は寺の奥の院となっている。大師はこの地で虚空蔵菩薩真言を百万回唱える「求聞持法」を修めたとされ、ここで拝むと素晴らしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があると言われる。大師が身を投じたとされる岩場と絶壁は更に50mほど登った場所にあり、鎖禅定となっている。絶壁の上には石の護摩壇が築かれ、稚児大師像が安置されている。下を見れば足のすくむような深い谷底だが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海が一望できる。境内には捨身ヶ嶽の遥拝所があり、石碑には身を投げる大師とそれを救う釈迦如来と天女の姿が描かれている。ここで念仏を唱えると、捨身ヶ嶽禅定に登ったのと同じご利益があるとされる。また、境内には求聞持大師像があり、真言を唱えながら願うと記憶力が得られるという。寺は曼荼羅寺からみかん畑の斜面を登るとすぐに着く。階段を登ると景色が開け、多度津や丸亀の市街地が見えてくる。弘法大師にまつわる寺伝は各霊場様々であるが、ここ出釈迦寺は大師が仏門に入るきっかけとなった伝説の地。他の寺の寺伝とは少々格が違うといった感じである。せっかくだから奥の院まで、と言いたいところだが、他のガイドブックでも40分はかかるという。大師は修行により物事を一度見聞きすると全て記憶したというが、記憶力アップを願うのであれば一度願掛けに登ってみるのもよい。山道を歩いた後は、道端に置かれた無人販売のミカンがとても美味しく感じられるだろう。

御詠歌 迷いぬる六道衆生すくわんと 尊き山に出づる釈迦寺

御本尊 釈迦如来

真言 のうまく  さんまんだ  ぼだなん  ばく