ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

源平合戦の舞台に立つ鑑真創建のお寺 香川県高松市「屋島寺」(その103)

第八十四番札所 南面山  屋島寺

(なんめんざん  やしまじ)

住所 高松市屋島東町1808

電話 087-841−9418

一宮寺から屋島寺まで

距離  16.3km 標高差  +322m  -76m

一宮寺から屋島寺まで

寺は鑑真により開創されたと伝わる。鑑真は唐の学僧で、朝廷の要請を受け五度にわたって出航したが、暴風や難破で失明。天平勝宝五年(753)に苦難の末鹿児島に漂着する。翌年、東大寺に船で向かう途中、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得し、屋島の北嶺に登る。そして、山の頂に普賢堂を建立し、持参した普賢菩薩像を安置して経典を納める。後に弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立し、屋島寺と称して初代住職に就く。弘仁六年(815)、弘法大師嵯峨天皇の勅願を受けて寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺へと移す。また、十一面千手観音像を彫造して本尊として安置し、蓑山明神を寺の鎮護の神として祀る。以降、大師は寺の中興開山の祖として仰がれる。その後、寺は山岳仏教霊場として隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が寺を訪ねて四天王像を奉納する。現在の本尊・十一面千手観音坐像もこの頃に造られたという。寺運は戦乱によって衰退するが、国主生駒家の寺領寄進や歴代藩主の援助により相次いで修築される。明治に入ると廃仏毀釈運動により寺勢は衰退するが、明治三十年に屋島保勝会が結成され寺の復興につとめる。観光を兼ねた屋島登山は日清戦争後から盛んになったといい、これに伴い寺の堂宇も順次整備されることとなる。屋島源平合戦の古戦場として名高く、「那須与一の扇の的」や「義経の弓流し」などの舞台となった場所である。こうした由縁もあり、鎌倉時代の作である寺の梵鐘はいつの頃からか「平家供養の鐘」と呼ばれるようになる。この鐘は、本尊の十一面千手観音坐像や本堂と同様、国の重要文化財に指定されている。境内の池には大師がお経と宝珠を納めたとの伝説が残るが、その後、源平合戦の武士たちが血の付いた刀を洗ったことから、こちらもいつの頃からか「血の池」と呼ばれるようになったという。本堂の右手にある蓑山大明神の祭神は日本三大名狸に数えられる「屋島太三郎狸」。蓑笠をつけた老人の姿で現れ、弘法大師を案内したと伝わる。四国狸の総大将で、子宝や縁結び、家庭円満にご利益があるという。本堂の左手前には「屋島寺宝物館」があり、本尊や源平盛衰記絵巻物、源氏の白旗、屋島合戦屏風など多彩な寺宝が保存・展示されている。寺は無料の屋島スカイウエイを登り切った終点にあり、巨大な駐車場と目に飛び込んでくる。ドライブウエイもあり、休日には団体バスツアーが続々と押し寄せる。お遍路さんはどちらかと云うと場違いな感じがするが、本堂の前に立つと不思議と心が落ち着き、周囲の喧騒も気にならなくなる。自分と御大師様との世界へとピタリとはまり込んだようであり、これも百を超す霊場を拝んできた成果なのかと妙に感心してしまう。四国霊場巡りも残り僅かとなり、お遍路三昧の週末もそろそろお終い。普段の週末に戻るのかと思うとホッとする反面、何やら一抹の寂しさを感じてしまう。寺からの下りは瀬戸内海を眼下に見ながらのワインディングロードで別名「源平ロマン街道」。霊場巡りの行程の中では、鯖大師本坊から最御崎寺までの海岸ルート、土佐清水市金剛福寺をつなぐ周回コースと並ぶ、スーパーカブの「三大快走路」だと思う。距離が短いのが少々残念だが、瀬戸内ならではの「多島海の風景」を楽しみながら下ることとしたい。

御詠歌 梓弓屋島の宮に詣でつつ 祈りをかけて勇む武夫

御本尊 十一面千手観音坐像

真言 おん  ばさら  たらま  きりく