ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

命をかけた海女の悲しい玉取り伝説が伝わるお寺 香川県さぬき市「志渡寺」(その105)

第八十六番札所 補陀洛山  志度寺

(ほだらくざん  しどじ)

住所 さぬき市志度1102

電話 087-894−0086

八栗寺から志度寺まで

距離  6.4km 標高差  +3m  -227m

八栗寺から志渡寺まで

縁起によると、寺の開創は四国霊場の中でも古く、推古天皇三十三年(625)と伝わる。近江国から志度浦へとたどり着いた檜の霊木を凡園子(おおしそのこ)が草庵に持ち帰り、これを刻んで十一面観音像を造り、一間四面の小さな堂を建て祀ったのが寺の始まりとされる。天武天皇十年(681)には藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し、寺を「死度道場」と名付ける。持統天皇七年(693)には不比等の息子、房前が行基とともに堂宇を拡張。寺名を志度寺へと改め、以降寺は学問の道場として栄える。寺は能楽謡曲「海士(あま)」の舞台として知られる。この話は海女の悲しい玉取りの伝説に由来する。藤原鎌足の娘、白光女は唐の高祖皇帝の妃となり、奈良の興福寺への奉納のため三つの宝物を送るが、そのうちの「面向不背の珠」という宝が志度湾で龍神に奪われる。これを取り戻すため、藤原不比等はこの地に住む海女と婚姻し、子をもうける。この海女は、我が子の立身を願い、死を決して龍神の棲む龍宮へ向かう。玉は無事取り戻せたが、龍神に追われ手足を食いちぎられたため、乳房の下を切り玉を隠して浮き上がり、遂に息絶えたという。不比等は薗子尼が建てた堂の傍らに海女の墓を造り、霊を篤く弔う。その後、藤原房前となった海女の子が寺を訪れ、母の供養のために千基の石塔を建立する。そのうち残った二十基余が海女の墓といわれ、寺の駐車場の脇に今も静かに眠っている。房前という名は近くの浜の地名に由来する。その後、弘仁年間(810〜824)に弘法大師が巡錫に訪れ、伽藍の修繕を行う。室町時代には四国管領細川氏が寄進して寺は繁栄するが、戦乱により荒廃。藤原氏末裔の生駒親正が寺を支援して再興を果たす。寛文十年(1671)には高松藩松平頼重が本堂と仁王門を寄進。以来、高松藩松平氏の庇護により寺は発展を続ける。門前町の突き当たりにある仁王門は運慶の力作。全国的にも珍しい三棟造りの堂々とした佇まいで、国の重要文化財に指定されている。閻魔堂に安置されている閻魔大王像は室町時代の中頃、「弥阿」という尼僧が等身大の像を作るように命じて自ら体を採寸させ、彫像後これを蘇生させたと伝わる。閻魔大王の顔は、参拝する人のその時々の心の在りようによって、怖い顔に見えたり優しい顔に見えたりするという。地元出身の実業家により寄進された五重塔は高さ33mで、巨大ワラジが据えられている山門とセットで絵になる光景である。本堂と大師堂は鬱蒼とした木々に覆われ、寺全体が植物園の如く大木・中低木が生い茂る場となっている。寺の裏手には志度湾が広がり、瀬戸内海の波光が美しく輝く。この穏やかな海にかくも恐ろしい伝説が伝わるとは想像できないが、志度寺には「寺の裏は極楽浄土に続いている」との言い伝えがある。霊場は魔界への入口とよく言われるが、水面を覗き込むと思わず引き込まれそうになった。七月十六日は海女の命日だという。この日は年に一度だけ本尊の十一面観音が御開帳されるので、いつか機会を見つけては命日に訪ねてみたいと思う。

御詠歌 いざさらば今宵はここに志度の寺 祈りのこえを耳にふれつつ

御本尊 十一面観音菩薩

真言 おん  まか  きゃろにきゃ  そわか