ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

四国霊場の最高地点に立つお寺 香川県美馬市「大瀧寺」(その108)

別格第二十番札所 福大三  大瀧寺

(ふくだいさん  おおたきじ)

住所 美馬市脇町字西大谷674

電話 0883−53−7910

大窪寺から大瀧寺まで

距離  29.7km 標高差  +900m  -419m

大窪寺から大瀧寺まで

寺伝によると神亀三年(726)行基が塩江より大滝山に登り、山上に一宇を建立して阿弥陀三尊を安置する。山の麓にある塩江温泉も、天平年間(729〜749)に行基により開湯されたという伝承が残る。延暦十年(791)弘法大師がこの地に入山して求聞持法を修する。これは、大師が著作した出家宣言の書「三教指帰(さんごうしいき)」に記された「求聞持法の修行地、阿国大瀧の獄」が、大滝山であると解されていることによる。弘仁六年(815)弘法大師が四十二才の時に再度山に訪れ、西照大権現の尊像を安置。法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修する。天安二年(858)には理源大師聖宝が入山して高野槙を手植し、男女厄除厄流の大護摩を修法する。大瀧寺住職の墓所の上には高野槇の大木が、境内には「天安二年聖宝尊師大護摩所」と刻まれた石碑がそれぞれあったと伝わるが、今は定かでなない。江戸時代には高松藩徳島藩家老の稲田氏の祈願所となり、西照大権現堂、龍王堂、護摩堂、観音堂、不動堂、弘法大師御影堂、鐘楼堂の堂宇が整備される。また、参道には十八基の鳥居が立ち、東方山中には奥の院熊野十二社大権現があったとされるが、明治十六年に客殿が、明治二十三年に権現堂が焼失する。さらに、昭和四十五年にも寺は火災に見舞われ、本堂兼大師堂以外が全て灰燼に帰する。寺のある大滝山は修験の山であり、吉野川をはさんで屹立する高越山(こうつやま)も同じである。修験の山どうしの両山には以下の伝説が伝わる。昔、大滝山と高越山が争い、怒って石の投げ合いを始めた。大滝山の石が次々と高越山に投げられ、高越山の石も次々と大滝山に投げられる。いつ果てるか分からない争いも、自分の山の岩でないものは自由に出来ないとの定めにより、全ての石を投げ尽くすと自然と争いが收まったという。今、大滝山にある岩は元は全て高越山のもの、高越山の岩は元は全て大滝山のものだという。寺は、徳島県香川県の県境にある大滝山(標高946m)の山頂近くの標高910m付近にあり、別格二十霊場、四国八十八霊場の中で最も高所に位置する。寺は四国八十八箇所総奥之院と呼ばれ、八十八霊場を打ち終えた後に本寺を訪れるお遍路さんもかつては多く見られたという。別格霊場最後の札所であるが、まさかこれほどの山奥にあるとは思わなかった。最後の最後に大ボスの登場である。とは言え道はそれなりに整備されており、時間こそかかるがスーパーカブでは快走コースである。大滝山へは南、北、西の三方向からアクセス出来るので、好きなルートで登り下ればよい。寺はいたって小ぢんまりとしており、八十八霊場のような賑やかさは全く感じられない。別格霊場の代表とも言えるような質素な寺であり、境内もきれいに整えられ清々しい。昔の徒歩のお遍路さんが、八十八霊場を打ち終えこの寺に登ってきたとき、どんな気持ちであったのかとふと考えてしまう。四国遍路の打ち止めとして実にふさわしい寺である。四国別格二十霊場のHPには「現在寺宝としては別にありません」と書かれてあるが、観光客はともかく、お遍路さんにとってはそれで十分だと思う。最後に四国霊場巡りの原点とも云うべき寺に戻れたことに感謝し、筆を置くこととしたい。

御詠歌 霊峰の岩間にひらく法の道 厄をながして衆生ぞすくわる

御本尊 西照大権現

真言 南無西照大権現