第四十四番札所 菅生山 大宝寺
(すごうざん だいほうじ )
電話 0892-21-0044
距離 50.1km 標高差 +727m -198m
縁起によると、大和朝廷の頃、百済から渡来した聖僧が山中に十一面観世音菩薩を安置したのが寺の始まりとされる。大宝元年(701)広島の安芸から来た明神右京と隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結び尊像を祀る。この奏上を聞いた文武天皇は勅命を下して寺院を建立させ、元号にちなんで「大寶寺」と称する。弘仁十三年(822)この地で密教を修法した弘法大師は寺を四国霊場の中札所と定め、宗派を天台宗から真言宗へと改める。仁平ニ年(1152)に全山焼失するが、保元年間(1156〜59)に後白河天皇が病気平癒を祈願したところ快癒したため、妹宮を住職に任じて伽藍を再建し、勅願寺と定める。七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に四十八坊を数えるほどであったが、「天正の兵火」で再び焼失。伊予松山藩主加藤嘉明などの寄進を受け雲秀法師が再興し、江戸中期には松平家の祈願所となる。明治七年には三度目の全焼を受けるが、檀家の寄進により再興を果たす。寺には「久万山農民一揆」にまつわる逸話が残る。寛保元年(1741)飢餓と重税に耐えかねた三千人に及ぶ農民が隣国の大洲領内に逃亡。領主の説得に応じず激しく抵抗するが、時の住職斉秀が仲裁役を果たし、一人の断罪者を出すことなく村は事なきを得る。藩は寺に百五十石を寄進し労をねぎらったという。境内には妹宮の遺体を祀る陵権現があり、頭の病気に霊験あらたかとされる。寺には後白河天皇直筆の勅額「菅生山」が残されている。本堂の左手奥にある掘出観音には、昭和九年に大寶寺の山中から掘り出された金銅の観音像が祀られている。観音像は樹齢千余年の古木の根元に埋められ、周囲を覆う百三十枚の石には法華経が一字一石刻まれていたという。観音像は平安時代後期から鎌倉時代初期のもので、身体から病気や悪霊を掘り起こすと信仰されている。大洲市からは重畳をつらなる四国山脈を越えることとなり、歩き遍路にとって伊予路最大の難渋な長丁場である。山門にあるわらじが四国霊場最大級なのも、そのためだとか。途中の三坂峠には「三坂通いすりや雪ふりかかる、もどりや妻子が泣きかかる」との馬子唄がある。老杉の茂る参道は昼でも薄暗く、雰囲気のよい荘厳とした山寺である。スーパーカブなら車道を最後まで行けるが、知らずに山門を通り過ぎてしまうので要注意。駐車場に停めると少し歩くが、蒼古とした参道を歩くのもまた楽しいもの。石段を登ると鐘楼が二つある。左側が古く、右側のものは太平洋戦争で亡くなった地元の英霊を供養する平和の鐘である。本堂参拝前に心静かに鐘を打ちたい。
御詠歌 今の世は大悲のめぐみ菅生山 ついには弥陀の誓いをぞまつ
御本尊 十一面観世音菩薩
御真言 おん まか きゃろにきゃ そわか