ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

巨大な七重塔があったお寺 愛媛県今治市「国分寺」(その68)

第五十九番札所 金光山  国分寺

(こんこうざん  こくぶんじ)

住所 今治市国分4-1-33

電話 0898-48-0533

仙遊寺から国分寺まで

距離  7.1km 標高差  +2m  -235m

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聖武天皇が発出した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つであり、天平十三年(741)に行基が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、寺を開創する。国分寺は「金光明最勝王経」による国家鎮護の寺であり、寺の山号はこれによる。第三世の住職智法律師の時に弘法大師が長く滞在し、「五大尊明王」の画像一幅を奉納して霊場と定める。また大師の十大弟子の一人である真如もニ年間留まり「法華経」の一部を書写して納める。当時は七堂伽藍を備えた大寺院で、現在の場所から150mほど東にあった。東塔跡と見られる場所には十三個の巨大礎石が残り、その配置から推測される七重塔の高さは60mと巨大。その後寺は災禍の歴史に見舞われる。天慶ニ年(939)の藤原純友の乱により堂宇は灰燼へと帰し、元暦元年(1184)の源平合戦の戦火により再度焼失。三度目は南北朝時代の貞治三年(1364)に讃岐細川頼之の兵火により焼かれ、四度目は長宗我部元親による天正の兵火にかかり焼失する。相次ぐ罹災により寺は荒廃し、元禄ニ年(1689)の四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」と記されている。本格的な復興は江戸時代後期、寛政元年(1789)第四十三世の住職恵光上人のときに現在の本堂が再建される。全国の国分寺は官道沿いの国府近くの一等地に建立されたが、当時の伊予国府は越智郡と呼ばれた今治にあり、ここへは都からの南海道が淡路、阿波、讃岐を経て続いていた。伊予文化発祥の地と言えよう。金光院のぬれ額は領主一柳通郷の筆による。寺は本堂を中心に、右に大師堂、左に金毘羅様、一段下がって庫裏、文化財収納庫を兼ねた書院とがっしりした建物が並んでいる。書院には「国分寺文書」「大般若経」など奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品が保存されている。境内にある智慧福徳の錫杖はくるくる回して願いをかける。その隣の薬師の壺は撫でながら真言を唱えると病が治ると伝わる。その近くには握手修行大師の像があり、看板に「お大師様と握手をして  願い事を一つだけ  あれもこれもはいけません  お大師様も忙しいですから」と書かれている。住職のアイデアだと言われるが、親しみ易く心が和む。寺の内庭には唐椿と呼ばれる珍樹がある。大輪の菊花に似ており、四月初旬に径17cmほどの牡丹に似た花をつける。寺は国道、JRのすぐ近くにあり、畑と宅地が混在するのどかな田舎町にある。ここでは平らな道が続く伊予平野のサイクリングを十分堪能したい。

御詠歌 守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり

御本尊 薬師瑠璃光如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

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仙人が雲間に消えたお寺 愛媛県今治市「仙遊寺」(その67)

第五十八番札所 作礼山  仙遊寺

(されいざん  せんゆうじ)

住所 今治市玉川町別所甲483

電話 0898-55-2141

栄福寺から仙遊寺まで

距離  2.9km 標高差  +217m  -13m

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栄福寺から仙遊寺

天智天皇(668〜671)の勅願により伊予の国主越智守興が堂宇を建立。天智天皇大化の改新の仕上げを念じ、虎皮の太鼓を寺に奉納したとされる。本尊の千手観音菩薩像は海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫り安置したと伝わる。このことから「作礼山」が山号となる。さらに、阿坊仙人という僧が四十年にわたって寺に籠り七堂伽藍を整えるが、養老ニ年(718)に雲と遊ぶが如く忽然と姿を消したと伝わる。このことから「仙遊寺」が寺名となる。弘法大師四国霊場開創の折にこの寺で修法を行ったとき、病に苦しむ人々を救済するため井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興したとされる。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝わる。江戸時代に入ると寺は荒廃し本堂と十二社権現だけとなるが、明治時代の初期、高僧宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力する。この宥蓮上人は明治四年に日本最後の即身成仏として入定しており、境内には上人を供養した五輪塔がある。昭和二十二年に山火事に遭い堂宇全てが焼失するが、本尊と大師像は三人の信者が命懸けで運び出し難を逃れる。昭和二十八年に本堂が、昭和三十三年に大師堂が再建される。本尊に安置された千手観世音菩薩は高さ六尺の立像で、温泉を備えた宿坊に泊まると本尊の前でお勤めが出来るとのこと。本堂の入口には四国で一番大きい賓頭盧尊者像がある。また、四国の札所では珍しく本尊と大師像が通年公開されている。寺の麓に竜登川という名の谷川がある。童女がぞくぞくと川を伝って遡り、列をなして寺に献灯したと伝わる。この灯りは桜の木に掛けられたため、桜は童灯桜と永く呼ばれていたが、今は枯死し牡丹桜に植え替えられている。寺は作礼山の八合目あたりにあり、途中に池塚池と呼ばれる池の脇を通る。池には「昔、利口な黒犬が栄福寺仙遊寺の用を兼務し、鐘の音がその合図として使われていた。ところがある日二つの鐘が同時に鳴ったため、迷った犬がついに池に飛び込み果て死んだ」という悲話が伝わる。寺まではみかん畑の中の急坂を登る。途中にロードバイクが一台置いてあったが、近くに参道はなく、余りの急坂のため徒步遍路へと切り替えたのではと思われた。寺に近づくほど坂は激坂へと変わるが、境内からは今治市街と瀬戸内海が一望出来、素晴らしいロケーションである。戦略的な要所でもあり、寺には河野家や村上家との関係を記した資料があるほか、山頂には古い砦があったと伝わる。本堂の中にある納経所で「何で来た」と聞かれたため、「ロードバイクで登ってきた」と答えると、仙人のような風貌の住職が「若いな、大したもんだ」と破顔一笑。こうしたやり取りは生涯忘れ得ないものである。

御詠歌 たちよりて作礼の堂にやすみつつ 六字を唱え経を読むべし

御本尊 千手観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

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海上安全祈願のお寺 愛媛県今治市「栄福寺」(その66)

第五十七番札所 府頭山  栄福寺

(ふとうざん  えいふくじ)

住所 今治市玉川町八幡甲200

電話 0898-55-2432

泰山寺から栄福寺まで

距離  3.1km 標高差  ほぼ平坦

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泰山寺から栄福寺まで

嵯峨天皇の勅願により弘法大師がこの地を巡教したのは弘仁年間(810〜824)のこと。大師は瀬戸内海の風波による海難事故の平易を祈り、府頭山の山頂で護摩供を修法する。その満願の日に風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂う。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂に引き上げ堂宇を建て、本尊として安置したのが寺の創建とされる。大和大安寺の行教上人が宇佐八幡の霊告を受け、その分社を山城の男山八幡として創建するため、貞観元年(859)に近海を航行中、暴風雨に遭う。この地に漂着した上人は、府頭山の山容が山城の男山と似ており、本尊の阿弥陀如来八幡大菩薩本地仏らのでもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営。神仏習合の勝岡八幡宮を創建したと伝わる。寺には江戸時代中期の寛政十二年(1800)に「八幡宮別当栄福寺」と記された古い納経帳が残されている。九州から巡礼に来た人の名で、約三箇月で四国霊場を一巡している。明治新政府神仏分離令により寺は旧地から山の中腹にある現在地に移転し、神社と寺がそれぞれ独立する。現在の大師堂も山頂にあった堂舎が移築されたものである。境内にある箱車は足の不自由な十五歳の少年のもの。犬に引かせて巡礼中、この寺で足が治り松葉杖とともに奉納したと伝わる。昭和八年の出来事であるが、以降寺は足腰守りの寺として信仰を集める。寺のトイレ設置は日本産業デザイン振興会主催の「2012年度グッドデザイン賞」を受賞。ヒノキの間伐材を用いた独自の工法が評価されたという。また、寺務所を兼ねた演仏堂も建築界からの評価が高く、寺のシンボルともなる。寺は山の中腹にあるが、集落を見下ろす程度のほど良い高さ。本堂と大師堂がすぐ近くにあり、境内はコンパクトな造りとなっている。柿がきれいに実り、趣のある落ち着いた寺である。寺は2010年より独自のウェブサイト「山歌う」を開設。寺の歴史や建物、御守の説明、住職の紹介など幅広い情報が入手でき、興味深い内容となっている。

御詠歌 この世には弓矢を守る八幡なり 来世は人を救う弥陀仏

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていせい  からうん

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治水のため土砂加持を修した寺 愛媛県今治市「泰山寺」(その65)

第五十六番札所 金輪山  泰山寺

(きんりんざん  たいさんじ)

住所 今治市小泉1-9-18

電話 0898-22-5959

南光坊から泰山寺まで

距離  3.0km 標高差  ほぼ平坦

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南光坊から泰山寺

弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁六年(815)のこと。この地方を流れる蒼社川が毎年梅雨になると氾濫し、田地や家屋を流し人命を奪っていた。村人たちは川を人取川と呼び恐れ、災いは悪霊の祟りと信じていた。事情を聴いた大師は村人たちと堤防を築き、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修する。土砂加持とは密教修法の一つで、土砂を死体や墓にまき亡者迫善の祈願を行うこととされる。大師は満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願の成就を果たす。大師はこの修法の地に「不忘の松」を植え、感得した地蔵菩薩像を彫造して本尊とし、堂舎を建て「泰山寺」と名づける。この寺名は「延命地蔵経」の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝わる。「泰山」には寺の裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるとされる。寺はその後淳和天皇(823〜33)の勅願所となる。この頃の寺は七堂伽藍を備え、塔頭に地蔵坊、不動坊等の十坊を構えるなど巨刹として栄えたと言われる。その後は度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内は大師お手植えの「不忘の松」がある現在の地へと移ったと伝わる。お手植えの松の木は現在、その三代目が境内に立っており、「不忘松」と書かれた石碑が脇に添えられている。本堂斜め前には石塔に丸い輪が付いた地蔵車が立つ。この輪を回すと地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの迷界で生まれては死ぬという「六道輪廻」の絆が断てるとされる。境内に立つ鐘楼は今治城にあった太鼓楼の古材で再建されたものである。寺は川の石を積んだ玉石造りの石垣の上に形良く収まっている。明治のはじめ、近隣の百姓が山へ出かけた際には必ず馬の背に石を乗せ帰り、それで石垣を築いたと伝わる。寺は今治市郊外の田園の中にあり、近年改修された白い漆喰塀が美しい。寺の境内にはお遍路さんの車が間違って迷い込み、納経所の方からお叱りを受けていた。お遍路さんには色々な人がいて、霊場を八十八も回れば色々な出来事が起きる。こうしたハプニングも修行の一つなのだろう。南光坊からはほぼ一本道で、国道を横切り「かつや」の脇から水路沿いに行くとすぐの場所にある。ここはロードバイクでのどかな田圃を楽しみたい。

御詠歌 みな人の詣りてやがて泰山寺 来世の引導たのみおきつつ

御本尊 地蔵菩薩

真言 おん  かかかび  さんまえい  そわか

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大山祗神社の別当寺 愛媛県今治市「南光坊」(その64)

第五十五番札所 別宮山  南光坊

(べっくざん  なんこうぼう)

住所 今治市別宮町3-1

電話 0898-22-2916

延命寺から南光坊まで

距離  3.7km 標高差  ほぼ平坦

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延命寺から南光坊まで

推古天皇に勅願により御代二年(594)大三島大山祇神社の元となる遠土宮が造立される。その後、風波のため祭祀が疎かになるのを憂いた文武天皇の勅願を受け、伊予の国司越智玉澄が大山積明神を伊予国越智郡日吉村に勧請して別宮を造営する。別宮は和銅五年(712)に完成し「日本総鎮守三島の地御前」として奉祀される。この時、大山祇神社の法楽所として別当寺二十四坊を建立し、このうち八坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊正治年間(1199〜1201)に別宮の別当寺大積山光明寺塔頭として現在の地へと移されたのが寺の始まりとされる。弘仁年間(810〜824)には弘法大師は四国巡錫の折に別宮を参拝し、坊で法楽を上げ霊場と定める。その後、天正の兵火で八坊全て焼失するが、今治藩主藤堂高虎により南光坊のみが別宮の別当寺として再建を果たす。江戸時代には今治藩主久松家の尊信を受け、祈祷所として定められる。明治初期の廃仏毀釈により、本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像・観音菩薩像を南光坊薬師堂へと遷座し、別宮大山祇神社と分離される。太平洋戦争により大師堂と金比羅堂を残して罹災するが、本堂は昭和五十六年、薬師堂は平成三年、山門は同十年に再建される。本堂には、過去世における釈迦如来の父であり、また師ともされる大通智勝仏が本尊として祀られている。「法華経」の化城喩品第七に説かれている仏で、大山積明神の本地仏である。大師堂の本尊は弘法大師像で、堂宇は長州大工の建築技術が結集した建造物と言われる。空襲での戦禍を免れたが、伝えられるところによると焼夷弾が境内に落とされた際、いずれもが大師堂の屋根を滑り落ち、堂内の者が全員無事であったという。山門には四方を守る持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、南光坊の別称「日本総鎮守三島地御前」の扁額が掲げられている。境内には金毘羅大権現を祀る金毘羅堂がある。船人から崇敬される讃岐の金比羅宮から勧請したもので、寺では最も古く文久年間(1861〜1864)の建立と伝わる。寺は今治市の中心部にあるが境内は広く、別宮大山祗神社が隣接している。神社の神紋はちぢみ三の字。元寇の戦いに自船の帆柱を倒し、これを伝って敵船に斬り込んだ河野通有で知られる越智水軍の統領・河野家の紋でもある。大山祗神社の本宮は大三島にあり、言わずと知れた大三島大明神。武将の信仰が極めて篤く「日本総鎮守」と呼ばれる。寺のある今治は、これも言わずと知れたサイクリストの憧れ「しまなみ海道」の出発地であり、途中には大三島も通る。南光坊のお参りが済んだら、ここは少し足を伸ばして大三島大山祗神社へと参拝することをお勧めする。全国にある山祇神社の総本社であり、国宝・重要文化財の指定を受けた甲冑の四割がこの神社に集まる。しまなみ海道スーパーカブでも自転車道を走れるので、スピードを落として来島海峡の絶景を楽しむのがよい。但し、しまなみ海道スーパーカブよりもロードバイクの方がお似合いである由、これも再び言わずと知れたこと。

御詠歌 このところ三島に夢のさめぬれば 別宮とても同じ垂迹

御本尊 大通智勝如来

真言 おん  あびらうんけん  ばざら  だどばん

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美しい鐘の音のお寺 愛媛県今治市「延命寺」(その63)

第五十四番札所 近見山  延命寺

(ちかみざん  えんめいじ)

住所 今治市阿方甲636

電話 0898-22-5696

圓明寺から延命寺まで

距離  33.8km 標高差  +117m  -98m

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圓明寺から延命寺まで

養老四年(720)、聖武天皇の勅願により行基大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、現在地より北にある近見山の山頂に伽藍を建立して寺を開創する。弘仁年間(810〜24)には弘法大師嵯峨天皇の勅命を受け、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興。不動院圓明寺と名づけて勅願所と定める。鎌倉時代の文永五年(1268)には華厳宗の学僧凝然が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる「八宗綱要」を著述する。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗を指し、上下ニ巻に記されている。凝然は宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの学僧であり、著書の多いこと日本一とされる。その後は再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保十二年(1727)に現在の地へと移転する。移転の際、寺の庭園に植木として植えたと伝わるツブラジイが今も現存する。この圓明寺という寺名は、同じ寺名である五十三番札所との間違いが多く、このため明治維新の際、寺名を江戸時代から俗称として用いてきた「延命寺」へと改める。本堂にある本尊は珍しく宝冠をかぶった不動明王像。再三の火災から逃れてきたため火伏不動尊と呼ばれる。山門の仁王門はもと今治城の城門の一つで、総けやき造り。天明年間(1781〜1789)の建造と言われており、明治初期の今治城取り壊しの際に譲り受ける。寺には四国でニ番目に古いとされる真念の道標が残されている。境内にはこの地の庄屋であった越智孫兵衛の供養塔が立つ。孫兵衛はおかゆの弁当を百姓に持たせて役人に生活苦を訴えた。そのため年貢米が引き下げられ、享保の大飢饉に阿方から一人の餓死者も出さなかったという。今も毎年八月には村人が集まり孫兵衛を供養する。寺の初代鐘楼は近見太郎といい、長曾我部の軍勢に略奪された際に「いぬるいぬる」(帰る帰る)と鳴ったと伝わる。また、連れ去られるぐらいならと自ら海に沈んだとも言われている。今の鐘楼は近見二郎と呼ばれる。鐘の音は諸行無常を伝え、その音は黄鐘調という。深秋十一月の声と仏教音楽では伝承されている。鐘の音の美しさは四国霊場随一で、さすが住職が「天下一品」と自賛するほど。宝鐘院と号するのももっともであろう。石段の左右には馬酔木が多く植栽され、春の彼岸ごろになると可憐な白い花をつける。桜やつつじも多く見られ、寺への進入路は桜のトンネルとなる。花の寺に響く美しい鐘の音。まことに風情のある寺である。圓明寺からは海岸沿いの国道をひたすら北東へと進む。フラットなシーサイドラインは交通量もさほど気にならないが、運悪く向かい風にぶつかると意外と時間を要する。JR沿いに進むので、急ぐ場合は輪行という手もある。途中の海辺にはお手製の休憩所があり、手作りの小さな手土産がお遍路さん向けに用意されている。

御詠歌 くもりなき鏡の縁とながむれば 残さず影をうつすものかな

御本尊 不動明王

真言 のうまく さんまんだ  ばざらだん  せんだ  まかろしゃだ  そわたや  うん  たらた  かんまん

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キリシタン灯籠のあるお寺 愛媛県松山市「圓明寺」(その62)

第五十三番札所 須賀山  圓明寺

(すがさん  えんみょうじ)

住所 松山市和気町1-182

電話 089-978-1129

太山寺から圓明寺まで

距離  2.8km 標高差  +1m  -59m

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太山寺から圓明寺まで

天平勝宝元年(749)に聖武天皇の勅願により行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立する。当時は和気浜の西山という海岸にあり、海岸山圓明密寺と称した。松山にある八寺のうち行基が開いたのは五寺となるが、圓明寺は行基最晩年の創建で、大仏建立のため諸国を勧進し回っていた頃に当たる。後に弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興するが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微。元和年間(1615〜24)に土地の豪族須賀重久によって現在地へと移される。寛永十年(1633)に須賀専斎重久が私財により再興を果たすが、その功労により寛永十三年(1636)仁和寺の覚深法親王より須賀山の山号を賜り、仁和寺の直末となる。本堂右上の鴨居には左甚五郎作と伝わる長さ5mほどの龍があり、行い悪い人が見ると目が光るとされる。大師堂左の塀ぎわには寛永年間(1624〜1644)作のキリシタン灯籠があり、高さ40cmのマリア観音像が刻まれている。キリシタン禁制の時代ではあるが、この地方には信者が多く住み、寺では隠れ信者の礼拝を黙認していたようである。大正十三年にシカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途中、寺の本尊阿弥陀如来像を安置している厨子納札が打ち付けてあるのを見つける。江戸時代初期にあたる慶安三年(1650)の銘があり、縦24cm、幅10cm、厚さ約1mmの大きさ。破損のない納札としては現存する四国霊場最古の銅板納札であり、市の民俗文化財に指定されている。札を奉納した樋口平人家次は、京都五智山蓮華寺の伽藍を再興し、五智如来石仏を造立したことで知られるが、この納札で注目されるのは四国霊場の中で初めて「遍路」の文字が記され、残されていることだという。寺のある和気町は伊予の国府があった今治へと通じる「今治街道」の要所であり、堀江港や三津浜港からも近い。寺はその町中にあり、小ぢんまりとしているが趣きは十分。近くにはJR予讃線が通る。寺の掲示板にある絵には「石の上にも三年 十年たてば必ず実もなる花も咲く」とあり、左下にはその英訳が添えてあった。どこで作られたか分からなかったが、心に染み入る言葉だと思う。

御詠歌 来迎の弥陀の光の圓明寺 照りそふ影は夜な夜なの月

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていぜい  からうん

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