ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

楠の霊木を祀るお寺 愛媛県西条市「生木地蔵」(その70)

別格第十一番札所 生木山  生木地蔵

(いききざん  いききじぞう)

住所 西条市丹原町高松248-1

電話 0898-68-7371

興隆寺から生木地蔵まで

距離  3.4km 標高差  +4m  -175m

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興隆寺から生木地蔵まで

寺伝によると、弘法大師霊場開創のため四国を巡錫の折、四尾山の麓にて仮の夜を過ごした時に山が光り輝き、暁には紫雲がたなびく。山の楠に童子が現れたことから大師は霊感を感得し、「童子の化身を以て我に示し給う」と一刀三礼して霊刀をふるい、一夜のうちに楠の大木に延命地蔵の尊像を刻む。ところが天邪鬼が鶏の鳴き真似をしたため、夜が明けたと思った大師は地蔵の片耳を刻み残したまま立ち去る。このことから地蔵は「耳欠け地蔵」と呼ばれ、耳の病や首から上の病気に霊験あらたかとされる。また青葉の茂る生きた楠に地蔵が刻まれたことから、寺は「生木地蔵」と呼ばれる。樹齢千二百年余と伝わる楠は、昭和二十九年の洞爺台風により根元から倒れる。本堂の横には倒れた楠の霊木が安置されており、その前に小さな楠大明神が祀られている。境内には雨乞いに効験ありと御礼により寄贈された雨乞い石がある。元禄十年(1697)の作とされる。真念の「四国遍路道指南」(1687)には「たんばら町、紫尾八幡、ふもとに大師御作生木の地蔵霊異あげて計がたし」とある。また「四国遍礼名所図会」(1800)には「生木地蔵尊楠の大樹なり、大師自刻し給ふ、今に枝葉茂りある、庵まへにあり、八幡宮山上にあり、下に門有り」とある。寺によると、楠の御霊木は根元より倒れてしまったが、大師自作のお地蔵様は倒れず昔日の姿のまま安泰しているとのこと。生木地蔵菩薩を御本尊とする生木地蔵は正善寺の院外寺院。本寺は同じ丹原町の今井にあり、御本尊は薬師如来である。カーナビに寺名を入れると誤って本寺を示すことがあるので要注意。四尾山は、遠くから見ると平野の中にぽっかりと浮かぶ島のように映る。樹木の種類が多いためかつては国の天然記念物に指定されていたが、相次ぐ台風被害により昭和四十八年に指定解除となったとのこと。内陸ゆえさほどの台風常襲地帯ではないが、地形上風の通り道となるのか。楠が倒れてしまったことと併せ残念なことである。

御詠歌 一夜にて願いを立つるみこころは 幾代かはらぬ楠のみどりば

御本尊 生木地蔵菩薩

真言 おん  かかかびさんまえい  そわか

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東予随一のもみじのお寺 愛媛県西条市「興隆寺」(その69)

別格第十番札所 仏法山  興隆寺

(ぶっぽうざん  こうりゅうじ)

住所 西条市丹原町古田甲1657

電話 0898-68-7275

国分寺から興隆寺まで

距離  16.9km 標高差  +249m  -57m

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国分寺から興隆寺まで

寺伝によると皇極天皇元年(642年)に空鉢上人により寺が創建されたとされる。空鉢上人とはインドから中国・朝鮮半島を経て渡来した法道仙人のことをいう。播磨の国一体に法道仙人ゆかりの寺が多く、四国では同じ別格霊場仙龍寺が法道仙人による開山と伝わる。その後は養老年間(712〜724)に行基が留錫。延暦年間(782〜806)には報恩大師が入山したところ、本堂西の杉の枝で本尊が光を放っているのを感得。枝を切り落とし本尊の台座とする。これが今も秘仏として伝わる千手観音であり、ゆかりの杉の木は「影向杉」「子持杉」と呼ばれる。この奇譚により寺は桓武天皇の勅願所となり、七堂伽藍が整備される。また弘法大師も寺に入山し、今の御詠歌と伝わる歌を残す。以降武家社会に入ると、皇室をはじめ、源頼朝、河野家、久松家等の崇敬を集め、東予随一の霊地となる。現在では真言宗醍醐派の別格本山とされ、本殿や宝篋印塔、銅鐘が国の重要文化財に指定。銅造如来立象や三重塔、興隆寺文書、名勝西山は県の文化財に指定されている。寺は高縄山系の西山の東麓に位置し、標高100〜300mに広大な寺域を有する。西山とは特定の山ではなく、市街の西に連なる山並みという意味。これにより寺は別名西興隆寺と呼ばれる。市街から坂道途中にある六角堂が寺へのスタート地点。その後、御詠歌に詠まれた御由流宜橋(みゆるぎのはし)という小さな赤い橋を渡る。橋の裏側には光明真言が書かれており、橋は無明から光明への架け橋とされる。仁王門をくぐると楓の木が生い茂る長い参道が続く。参道脇には牛の形に似た牛石がある。源頼朝が本堂を再建した際、資材を運搬していた牛がこの地で倒れたため、牛に似た石で葬ったと伝わる。参拝者は口のように見える石の割れ目に草を差し込み、労をねぎらうのが習わし。更に登ると右手に勅使門、城のような石垣の上いは本堂、大師堂、三重塔が立ち並び、風格のある大寺院である。別格第七番の出石寺と同様、何故この寺が八十八霊場でなく別格霊場なのか、実に残念だと思う。寺には珍しく食事処があり、畳座敷の大広間で鯛めしやうどん、汁粉が楽しめる。座敷の窓からの眺望は「扇面の景」と呼ばれる。左右に広がる山の稜線によって景色が扇型に切り取られることに由来する。和風庭園越しに広がる風景を是非味わってほしい。寺は別名「紅葉寺」と呼ばれ、秋のもみじの美しさは別格。シーズンには行楽客が押し寄せ、カメラマンに対してお遍路の邪魔にならないようにと注意看板が出るほど。せっかくなので紅葉時期の、観光客の少ない早朝を狙ってお参りするのがベストであるが、美味しいうどんはやはりお昼に味わいたいもの。さてどうしたものかと、ささやかな煩悩を楽しみたい。国分寺から第六十番札所の横峰寺まではやや距離があり、かつ横峰寺は山寺としては大ボス的存在なので、この区間スーパーカブでのお参りがお勧め。

御詠歌 み佛の法の御山の法の水 ながれも清くみゆるぎの橋

御本尊 千手千眼観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

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巨大な七重塔があったお寺 愛媛県今治市「国分寺」(その68)

第五十九番札所 金光山  国分寺

(こんこうざん  こくぶんじ)

住所 今治市国分4-1-33

電話 0898-48-0533

仙遊寺から国分寺まで

距離  7.1km 標高差  +2m  -235m

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聖武天皇が発出した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つであり、天平十三年(741)に行基が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、寺を開創する。国分寺は「金光明最勝王経」による国家鎮護の寺であり、寺の山号はこれによる。第三世の住職智法律師の時に弘法大師が長く滞在し、「五大尊明王」の画像一幅を奉納して霊場と定める。また大師の十大弟子の一人である真如もニ年間留まり「法華経」の一部を書写して納める。当時は七堂伽藍を備えた大寺院で、現在の場所から150mほど東にあった。東塔跡と見られる場所には十三個の巨大礎石が残り、その配置から推測される七重塔の高さは60mと巨大。その後寺は災禍の歴史に見舞われる。天慶ニ年(939)の藤原純友の乱により堂宇は灰燼へと帰し、元暦元年(1184)の源平合戦の戦火により再度焼失。三度目は南北朝時代の貞治三年(1364)に讃岐細川頼之の兵火により焼かれ、四度目は長宗我部元親による天正の兵火にかかり焼失する。相次ぐ罹災により寺は荒廃し、元禄ニ年(1689)の四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」と記されている。本格的な復興は江戸時代後期、寛政元年(1789)第四十三世の住職恵光上人のときに現在の本堂が再建される。全国の国分寺は官道沿いの国府近くの一等地に建立されたが、当時の伊予国府は越智郡と呼ばれた今治にあり、ここへは都からの南海道が淡路、阿波、讃岐を経て続いていた。伊予文化発祥の地と言えよう。金光院のぬれ額は領主一柳通郷の筆による。寺は本堂を中心に、右に大師堂、左に金毘羅様、一段下がって庫裏、文化財収納庫を兼ねた書院とがっしりした建物が並んでいる。書院には「国分寺文書」「大般若経」など奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品が保存されている。境内にある智慧福徳の錫杖はくるくる回して願いをかける。その隣の薬師の壺は撫でながら真言を唱えると病が治ると伝わる。その近くには握手修行大師の像があり、看板に「お大師様と握手をして  願い事を一つだけ  あれもこれもはいけません  お大師様も忙しいですから」と書かれている。住職のアイデアだと言われるが、親しみ易く心が和む。寺の内庭には唐椿と呼ばれる珍樹がある。大輪の菊花に似ており、四月初旬に径17cmほどの牡丹に似た花をつける。寺は国道、JRのすぐ近くにあり、畑と宅地が混在するのどかな田舎町にある。ここでは平らな道が続く伊予平野のサイクリングを十分堪能したい。

御詠歌 守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり

御本尊 薬師瑠璃光如来

真言 おん  ころころ  せんだりまとうぎ  そわか

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仙人が雲間に消えたお寺 愛媛県今治市「仙遊寺」(その67)

第五十八番札所 作礼山  仙遊寺

(されいざん  せんゆうじ)

住所 今治市玉川町別所甲483

電話 0898-55-2141

栄福寺から仙遊寺まで

距離  2.9km 標高差  +217m  -13m

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栄福寺から仙遊寺

天智天皇(668〜671)の勅願により伊予の国主越智守興が堂宇を建立。天智天皇大化の改新の仕上げを念じ、虎皮の太鼓を寺に奉納したとされる。本尊の千手観音菩薩像は海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫り安置したと伝わる。このことから「作礼山」が山号となる。さらに、阿坊仙人という僧が四十年にわたって寺に籠り七堂伽藍を整えるが、養老ニ年(718)に雲と遊ぶが如く忽然と姿を消したと伝わる。このことから「仙遊寺」が寺名となる。弘法大師四国霊場開創の折にこの寺で修法を行ったとき、病に苦しむ人々を救済するため井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興したとされる。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝わる。江戸時代に入ると寺は荒廃し本堂と十二社権現だけとなるが、明治時代の初期、高僧宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力する。この宥蓮上人は明治四年に日本最後の即身成仏として入定しており、境内には上人を供養した五輪塔がある。昭和二十二年に山火事に遭い堂宇全てが焼失するが、本尊と大師像は三人の信者が命懸けで運び出し難を逃れる。昭和二十八年に本堂が、昭和三十三年に大師堂が再建される。本尊に安置された千手観世音菩薩は高さ六尺の立像で、温泉を備えた宿坊に泊まると本尊の前でお勤めが出来るとのこと。本堂の入口には四国で一番大きい賓頭盧尊者像がある。また、四国の札所では珍しく本尊と大師像が通年公開されている。寺の麓に竜登川という名の谷川がある。童女がぞくぞくと川を伝って遡り、列をなして寺に献灯したと伝わる。この灯りは桜の木に掛けられたため、桜は童灯桜と永く呼ばれていたが、今は枯死し牡丹桜に植え替えられている。寺は作礼山の八合目あたりにあり、途中に池塚池と呼ばれる池の脇を通る。池には「昔、利口な黒犬が栄福寺仙遊寺の用を兼務し、鐘の音がその合図として使われていた。ところがある日二つの鐘が同時に鳴ったため、迷った犬がついに池に飛び込み果て死んだ」という悲話が伝わる。寺まではみかん畑の中の急坂を登る。途中にロードバイクが一台置いてあったが、近くに参道はなく、余りの急坂のため徒步遍路へと切り替えたのではと思われた。寺に近づくほど坂は激坂へと変わるが、境内からは今治市街と瀬戸内海が一望出来、素晴らしいロケーションである。戦略的な要所でもあり、寺には河野家や村上家との関係を記した資料があるほか、山頂には古い砦があったと伝わる。本堂の中にある納経所で「何で来た」と聞かれたため、「ロードバイクで登ってきた」と答えると、仙人のような風貌の住職が「若いな、大したもんだ」と破顔一笑。こうしたやり取りは生涯忘れ得ないものである。

御詠歌 たちよりて作礼の堂にやすみつつ 六字を唱え経を読むべし

御本尊 千手観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

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海上安全祈願のお寺 愛媛県今治市「栄福寺」(その66)

第五十七番札所 府頭山  栄福寺

(ふとうざん  えいふくじ)

住所 今治市玉川町八幡甲200

電話 0898-55-2432

泰山寺から栄福寺まで

距離  3.1km 標高差  ほぼ平坦

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泰山寺から栄福寺まで

嵯峨天皇の勅願により弘法大師がこの地を巡教したのは弘仁年間(810〜824)のこと。大師は瀬戸内海の風波による海難事故の平易を祈り、府頭山の山頂で護摩供を修法する。その満願の日に風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂う。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂に引き上げ堂宇を建て、本尊として安置したのが寺の創建とされる。大和大安寺の行教上人が宇佐八幡の霊告を受け、その分社を山城の男山八幡として創建するため、貞観元年(859)に近海を航行中、暴風雨に遭う。この地に漂着した上人は、府頭山の山容が山城の男山と似ており、本尊の阿弥陀如来八幡大菩薩本地仏らのでもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営。神仏習合の勝岡八幡宮を創建したと伝わる。寺には江戸時代中期の寛政十二年(1800)に「八幡宮別当栄福寺」と記された古い納経帳が残されている。九州から巡礼に来た人の名で、約三箇月で四国霊場を一巡している。明治新政府神仏分離令により寺は旧地から山の中腹にある現在地に移転し、神社と寺がそれぞれ独立する。現在の大師堂も山頂にあった堂舎が移築されたものである。境内にある箱車は足の不自由な十五歳の少年のもの。犬に引かせて巡礼中、この寺で足が治り松葉杖とともに奉納したと伝わる。昭和八年の出来事であるが、以降寺は足腰守りの寺として信仰を集める。寺のトイレ設置は日本産業デザイン振興会主催の「2012年度グッドデザイン賞」を受賞。ヒノキの間伐材を用いた独自の工法が評価されたという。また、寺務所を兼ねた演仏堂も建築界からの評価が高く、寺のシンボルともなる。寺は山の中腹にあるが、集落を見下ろす程度のほど良い高さ。本堂と大師堂がすぐ近くにあり、境内はコンパクトな造りとなっている。柿がきれいに実り、趣のある落ち着いた寺である。寺は2010年より独自のウェブサイト「山歌う」を開設。寺の歴史や建物、御守の説明、住職の紹介など幅広い情報が入手でき、興味深い内容となっている。

御詠歌 この世には弓矢を守る八幡なり 来世は人を救う弥陀仏

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていせい  からうん

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治水のため土砂加持を修した寺 愛媛県今治市「泰山寺」(その65)

第五十六番札所 金輪山  泰山寺

(きんりんざん  たいさんじ)

住所 今治市小泉1-9-18

電話 0898-22-5959

南光坊から泰山寺まで

距離  3.0km 標高差  ほぼ平坦

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南光坊から泰山寺

弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁六年(815)のこと。この地方を流れる蒼社川が毎年梅雨になると氾濫し、田地や家屋を流し人命を奪っていた。村人たちは川を人取川と呼び恐れ、災いは悪霊の祟りと信じていた。事情を聴いた大師は村人たちと堤防を築き、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修する。土砂加持とは密教修法の一つで、土砂を死体や墓にまき亡者迫善の祈願を行うこととされる。大師は満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願の成就を果たす。大師はこの修法の地に「不忘の松」を植え、感得した地蔵菩薩像を彫造して本尊とし、堂舎を建て「泰山寺」と名づける。この寺名は「延命地蔵経」の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝わる。「泰山」には寺の裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるとされる。寺はその後淳和天皇(823〜33)の勅願所となる。この頃の寺は七堂伽藍を備え、塔頭に地蔵坊、不動坊等の十坊を構えるなど巨刹として栄えたと言われる。その後は度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内は大師お手植えの「不忘の松」がある現在の地へと移ったと伝わる。お手植えの松の木は現在、その三代目が境内に立っており、「不忘松」と書かれた石碑が脇に添えられている。本堂斜め前には石塔に丸い輪が付いた地蔵車が立つ。この輪を回すと地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの迷界で生まれては死ぬという「六道輪廻」の絆が断てるとされる。境内に立つ鐘楼は今治城にあった太鼓楼の古材で再建されたものである。寺は川の石を積んだ玉石造りの石垣の上に形良く収まっている。明治のはじめ、近隣の百姓が山へ出かけた際には必ず馬の背に石を乗せ帰り、それで石垣を築いたと伝わる。寺は今治市郊外の田園の中にあり、近年改修された白い漆喰塀が美しい。寺の境内にはお遍路さんの車が間違って迷い込み、納経所の方からお叱りを受けていた。お遍路さんには色々な人がいて、霊場を八十八も回れば色々な出来事が起きる。こうしたハプニングも修行の一つなのだろう。南光坊からはほぼ一本道で、国道を横切り「かつや」の脇から水路沿いに行くとすぐの場所にある。ここはロードバイクでのどかな田圃を楽しみたい。

御詠歌 みな人の詣りてやがて泰山寺 来世の引導たのみおきつつ

御本尊 地蔵菩薩

真言 おん  かかかび  さんまえい  そわか

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大山祗神社の別当寺 愛媛県今治市「南光坊」(その64)

第五十五番札所 別宮山  南光坊

(べっくざん  なんこうぼう)

住所 今治市別宮町3-1

電話 0898-22-2916

延命寺から南光坊まで

距離  3.7km 標高差  ほぼ平坦

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延命寺から南光坊まで

推古天皇に勅願により御代二年(594)大三島大山祇神社の元となる遠土宮が造立される。その後、風波のため祭祀が疎かになるのを憂いた文武天皇の勅願を受け、伊予の国司越智玉澄が大山積明神を伊予国越智郡日吉村に勧請して別宮を造営する。別宮は和銅五年(712)に完成し「日本総鎮守三島の地御前」として奉祀される。この時、大山祇神社の法楽所として別当寺二十四坊を建立し、このうち八坊(中之坊・大善坊・乗蔵坊・通蔵坊・宝蔵坊・西光坊・円光坊・南光坊正治年間(1199〜1201)に別宮の別当寺大積山光明寺塔頭として現在の地へと移されたのが寺の始まりとされる。弘仁年間(810〜824)には弘法大師は四国巡錫の折に別宮を参拝し、坊で法楽を上げ霊場と定める。その後、天正の兵火で八坊全て焼失するが、今治藩主藤堂高虎により南光坊のみが別宮の別当寺として再建を果たす。江戸時代には今治藩主久松家の尊信を受け、祈祷所として定められる。明治初期の廃仏毀釈により、本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像・観音菩薩像を南光坊薬師堂へと遷座し、別宮大山祇神社と分離される。太平洋戦争により大師堂と金比羅堂を残して罹災するが、本堂は昭和五十六年、薬師堂は平成三年、山門は同十年に再建される。本堂には、過去世における釈迦如来の父であり、また師ともされる大通智勝仏が本尊として祀られている。「法華経」の化城喩品第七に説かれている仏で、大山積明神の本地仏である。大師堂の本尊は弘法大師像で、堂宇は長州大工の建築技術が結集した建造物と言われる。空襲での戦禍を免れたが、伝えられるところによると焼夷弾が境内に落とされた際、いずれもが大師堂の屋根を滑り落ち、堂内の者が全員無事であったという。山門には四方を守る持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四天王像が安置され、南光坊の別称「日本総鎮守三島地御前」の扁額が掲げられている。境内には金毘羅大権現を祀る金毘羅堂がある。船人から崇敬される讃岐の金比羅宮から勧請したもので、寺では最も古く文久年間(1861〜1864)の建立と伝わる。寺は今治市の中心部にあるが境内は広く、別宮大山祗神社が隣接している。神社の神紋はちぢみ三の字。元寇の戦いに自船の帆柱を倒し、これを伝って敵船に斬り込んだ河野通有で知られる越智水軍の統領・河野家の紋でもある。大山祗神社の本宮は大三島にあり、言わずと知れた大三島大明神。武将の信仰が極めて篤く「日本総鎮守」と呼ばれる。寺のある今治は、これも言わずと知れたサイクリストの憧れ「しまなみ海道」の出発地であり、途中には大三島も通る。南光坊のお参りが済んだら、ここは少し足を伸ばして大三島大山祗神社へと参拝することをお勧めする。全国にある山祇神社の総本社であり、国宝・重要文化財の指定を受けた甲冑の四割がこの神社に集まる。しまなみ海道スーパーカブでも自転車道を走れるので、スピードを落として来島海峡の絶景を楽しむのがよい。但し、しまなみ海道スーパーカブよりもロードバイクの方がお似合いである由、これも再び言わずと知れたこと。

御詠歌 このところ三島に夢のさめぬれば 別宮とても同じ垂迹

御本尊 大通智勝如来

真言 おん  あびらうんけん  ばざら  だどばん

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