ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

西行の昼寝石のあるお寺 香川県善通寺市「曼荼羅寺」(その89)

第七十二番札所 我拝師山  曼荼羅寺

(がはいしざん  まんだらじ)

住所 善通寺市吉原町1380-1

電話 0877-63-0072

海岸寺から曼荼羅寺まで

距離  4.9km 標高差  ほぼ平坦

海岸寺から曼荼羅寺まで

縁起によると、寺の創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。弘法大師の祖先である讃岐の領主佐伯家の氏寺として創建され、当初は世坂寺と称していた。大師が寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の仏果菩提を祈るためと伝わる。唐の青龍寺を模した伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界胎蔵界曼荼羅を安置し、寺名を曼荼羅寺へと改める。平安末期には西行がしばしば寺を訪ねる。武士ながら僧となった西行は寺の南、火上山中腹の「水茎の丘」に七年間庵を結び、「山里に憂き世は厭わん友もなが悔しく過ごし昔語らん」と詠む。西行はしばしば寺に通い、本堂前の石の上でよく昼寝をしたという。その石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にある。その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木が立つ。西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたのを見て、「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」と詠む。鎌倉時代には後堀河天皇から寺領を賜り寺は栄えるが、永禄三年(1560)阿波の三好実休の兵火で焼亡。さらに慶長年間(1596~1615)に戦火を受けるが、江戸時代に復興を果たす。寺には樹齢千二百年を超す大師お手植えの「不老松」があったが、松くい虫の被害を受け枯死。現在はその幹を刻んだ大師像が境内に祀られており、往時の菅笠に似た松の姿を偲んで像は「笠松大師」と呼ばれる。境内には川が流れ、橋を渡ると正面に本堂、左に大師堂、右に納経所と形良く並ぶ。狭い境内ではあるが、こじんまり良くまとまった寺だと思う。善通寺は大師の誕生所であり、市内には五つの札所がある。本寺はその打ち初めで、次の出釈迦寺と共に大師遺蹟の五岳の麓にある。その中央にある山は我拝師山と呼ばれ、大師修行の霊地。両寺ともその山名を山号に用いている。この辺りは瀬戸大橋から近いせいか、京阪神ナンバーの自家用車が目につく。心持ち参拝客も増えたような気がするが、お遍路さんは「四国巡礼の間、一度は弘法大師とすれ違う」という。逆打ちが順打ちの三倍のご利益があるというのは「逆打ちしている弘法大師と必ずすれ違うから」だそうだが、順打ちであっても「長い道中、お遍路さんはお大師様とどこかで一度はすれ違う。ただ皆さん、それに気が付かないだけ。」と寺のどなたかから聞いたことがある。もしかしたら、増えてきた参拝者の中に、お大師様がこっそりといらっしゃるのかも知れない。

御詠歌 わずかにも曼荼羅おがむ人はただ ふたたびみたびかえらざらまし

御本尊 大日如来

真言 おん  あびらうんけん  ばさらだどばん

 

弘法大師の母玉依御前のお寺 香川県多度津町「海岸寺」(その88)

別格第十八番札所 経納山  海岸寺

(きょうのうざん かいがんじ)

住所 仲多度郡多度津町西白方997-1

電話 0877-33-3333

弥谷寺から海岸寺まで

距離  5.4km 標高差  +3m  -110m

弥谷寺から海岸寺まで

寺伝によるとこの地は弘法大師の母である玉依(たまより)御前の出身地で、方亀五年(774)に産屋を設けて大師を出産したと伝わる。大同二年(807)大師がこの産屋後に本堂を建立し、正観音又は弥勒菩薩を安置したのが寺の開創とされる。弘仁六年(816)に大師は四十二歳の厄除けのため再度寺を訪ね、自身の像を刻んで大師堂を建立する。保延五年(1139)の住職観應の時には寺勢盛大をきわめ、楼閣四十余坊軒を連ねるが、天正の兵火で焼失。「仏閣僧坊伽藍等火煙と化し、法器霊宝灰と変ず」との記述が残る。天正十八年(1590)の住職實存の時に寺は再興を果たす。江戸時代中期には「大師の誕生所」と寺が名乗ることを不服とする善通寺との間で争いが勃発。寺社奉行を巻き込んだ騒ぎへと発展し、文化十三年(1816)に嵯峨御所より「善通寺は誕生所で、当寺は弘法大師出化初因縁の霊跡と称する」と裁決される。善通寺は父公の本宅、海岸寺は母公の居られた処と仕分けた結果であり、一応の解決をみる。明治三十八年には裏の海岸にロシア兵捕虜収容所(善通寺俘虜収容所)が造られ、約千名が翌年まで収容されたという、寺としては一風変わった寺歴を有する。大正五年に失火により太子堂他を焼失するが、昭和期に再建され現在に至る。山門の両脇には仁王像の代わりに昭和三十年代に活躍した地元出身力士琴ヶ浜と大豪の像が立っており、ユニークで目を引く。山門から本堂はすぐの所にあり、靴を脱いでお参りをする。本堂から石畳を進むと裏手には穏やかな瀬戸内海が広がる。海から眺める山々が立てかけた屏風の形をしていることから、屏風ヶ浦と呼ばれる。寺の奥の院弘法大師産屋跡と伝わる場所で、大師堂が建つ。本尊は大師真作の稚児大師で、日本で唯一赤ちゃんの姿。両脇に四天王、脇侍に父母の像を擁する。寺の背後にある御盥山(おたらいやま)には広大な「まんだら園」があり、四国八十八箇所と別格二十霊場を合わせた新四国百八箇所の石仏が並び、二重の塔や文殊堂、御盥山不動坊が建つ。山は別名「経納山」と言い、幼少期の大師が法華経を一字一石写経し、その石を納めたという逸話が残る。寺の間口は狭く、県道を走るとうっかり見落としがちであるが、寺域は広大で見どころが多い。大師父方の居である善通寺の賑やかさ、人の多さと比べると、寺はのんびりとした優しい感じが漂う。ガイドブックには「母方に縁のある土地だから」と書いてあったが、まさにそうした趣きのある寺である。八十八霊場を巡るだけではこうした経験は得られず、別格霊場を参拝することでちょうど良いバランスとなる。海岸沿いにある寺はこれより先八十六番札所の志渡寺までなく、海辺をゆっくり散歩してみるのも良いだろう。

御詠歌 せとのきしまなこやひらくかいがんじ よろこびみちぬ身も心にも

御本尊 聖観世音菩薩

真言 おん  あろりきゃ  そわか

 

死霊の行くお寺 香川県三豊市「弥谷寺」(その87)

第七十一番札所 剣五山  弥谷寺

(けんござん いやだにじ)

住所 三豊市三野町大見乙70

電話 0875-72-3446

本山寺から弥谷寺まで

距離  12.1km 標高差  +196m  -18m

本山寺から弥谷寺まで

寺伝によると天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅願により行基菩が堂宇を建立。光明皇后の菩提を弔うため「大方広仏華厳経」を祀り、寺を創建したとされる。また、寺宝の経典の中には神亀元年(724)頃に作られた経典が残され、それ以前に建立されていたとも言われる。その後、唐から帰国した弘法大師が大同二年(807)に入山し、真言密教の秘法を勤修する。その満願の日に五柄の剣が天から降り金剛蔵王権現の姿を現したため、大師はこれを彫像。唐から持ち帰った五鈷鈴と五柄の剣と共に納め、山号を剣五山、寺名を仏の住む弥山から弥谷寺へと改める。大師は七歳から十二歳の頃にもこの地で修行に励んだと言われ、場所は大師堂奥の洞窟。獅子が咆哮しているように見えるため「獅子堂岩屋」と呼ばれる。「獅子の咆哮は仏の説法と同じ」との仏教の信仰から、この岩屋の前で参拝すると「身につくあらゆる厄災を獅子が食べ尽くし、身を護る」とされる。室町時代には天霧城主香川家の庇護を受け、東院・西院・中尊院と六坊を備えるが、天正の兵火により荒廃。丸亀藩主京極家の帰依により復興を果たす。寺は標高382mの弥谷山の中腹に立つ。山は古来より「仏の山」として信仰され、恐山、臼杵磨崖仏(うすきまがいぶつ)と共に日本三大霊場の一つである。全山が霊場、仏の世界であるが、中でも本堂下の水場横にある洞窟は極楽浄土の入口である。洞窟に真言を書いた木札を納め、洞窟から湧き出る霊水で清め願掛けを行う「お水まつり」が毎年春の彼岸に行われる。木札を洗い清めてお供えすると、願掛地蔵によって霊山に住む仏や神に願い事が届けられると伝わる。山門から納経所を兼ねる大師堂兼納経所までは石段を四百段登る。石段の脇には岩山や修験者により刻まれた磨崖仏があちことに点在し、最後の百八段は赤い手すりにすがるように一直線の急坂を登り詰めていく。煩悩の数を一つ一つ消しながら登ると、仏の世界へとたどり着くという意味かも知れない。足の弱い年配の女性が、息も絶え絶え石段を登る姿が目につく。大師堂から本堂までは百七十段あり、途中に護摩堂や権現堂がある。本堂からは三豊平野が一望でき、四国霊場の中でも登りがいのある石段としては大ボス級である。参道の途中には「賽の河原」と呼ばれる暗くて鬱蒼とした谷間がある。死者の呼び声が聞こえる中、幼児が泣き泣き石を積む賽の河原を彷彿させるよう場所である。寺には様々な伝説があり、古くから「死靈の行く寺」と信仰されている。この地方の慣わしでは、家で人が死ぬと手を背中に回し、死靈を背負いながら寺に登り葬る。そして帰りには「決して振り返ってはならない、それは死者を背負って帰ってしまうから」と諌められていた。交通量の多い国道11号線から分岐して僅か数キロほど、坂のすぐ下には賑やかな日帰り温泉施設があるこの地に、まさか死靈の行く寺があるとは思わなかった。

御詠歌 悪人と行き連れなむも弥谷寺 ただかりそめもよき友ぞよき

御本尊 千手観音

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

 

太刀受けの弥陀(みだ)が守ったお寺 香川県三豊市「本山寺」(その86)

第七十番札所 七宝山  本山寺

(しっぽうざん もとやまじ)

住所 三豊市豊中町本山甲1445

電話 0875-62-2007

観音寺から本山寺まで

距離  5.0km 標高差  ほぼ平坦

観音寺から本山寺まで

大同ニ年(807)平城天皇の勅願により弘法大師が開基。大師は馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来薬師如来を脇侍として、一刀三礼で刻んだとされる。尊像を安置する本堂には、大師が一夜ほどの短期間にて建立したという「一夜建立」の伝説が残る。当時の寺名は「長福寺」であった。天正の兵火では諸堂を焼失するが、本堂と仁王門は焼かれずに残る。これは、長宗我部軍が本堂に侵入の際に住職を刃にかけたところ、脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、これに驚いた軍勢が急ぎ退去したことによる。このことから、阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれるようになる。その後、江戸時代に入ると領主の生駒家と京極家により再興され、寺名は「本山寺」と改められる。本堂は本瓦葺きの寄木造りで重厚な建物。屋根の曲線が独特の美しさと風格を醸し出す。正安ニ年(1300年)の創建で、戦火を逃れて当時の姿を残している。外観は京都風、内部は奈良風の鎌倉時代の折衷様式の傑作で、国宝に指定。仁王門は和様・唐様・天竺様の三様式からなる山門で、全国でも珍しいという。どっしりとした構えの八脚門で、国の重要文化財に指定。寺のシンボルである五重塔はもとは大同四年(809)に造られたが、明治四十三年に再建。八十八霊場の中で五重塔があるのは本寺と竹林寺善通寺、志渡寺の四寺だけである。檜皮葺き屋根の鎮守堂は室町時代の様式を伝える小さな社。素朴な佇まいで、請雨秘法の霊神・善女龍王が祀られている。八十八霊場の中で馬頭観音を本尊とするのは本寺のみ。馬頭観音は人間の欲や怒り、悩みなどを無くすとされる観音様で、馬の保護神として江戸時代に信仰される。境内は2万㎡と広大で、松が点在するなか多くの堂宇が立ち並ぶ。観音寺からは川沿いを走るとじきに着くという、ロードバイクにとってちょうど良い距離感。本堂は香川県内の寺で唯一の国宝建築物なので、その美しさをじっくりと味わうのが良い。

御詠歌 本山に誰か植江ける花なれや 春こそたをれたむけにぞなる

御本尊 馬頭観音菩薩

真言 おん  あみりと  どはんば  うん  はった  そわか

 

弘法大師が住職を務めたお寺 香川県観音寺市「観音寺」(その85)

第六十九番札所 七宝山  観音寺

(しっぽうざん かんのんじ)

住所 観音寺市八幡町1-2-7

電話 0875-25-3871

神恵院から観音寺まで

距離  標高差  なし(同一境内内)

大宝三年(703)、日証上人が琴弾八幡宮を開創したのは前の札所・神恵院と同じであるが、このとき八幡宮の神宮寺として建立したのが寺の始まりで、当時は神宮寺宝光院と称していた。大同ニ年(807)、弘法大師は琴弾八幡宮本地仏である阿弥陀如来像を寺に奉納し、第七世住職として入山する。大師は、奈良の興福寺に倣って中金堂、東金堂、西金堂の様式で七堂伽藍を建立し、本尊となる聖観世音菩薩像を彫造して安置。さらに仏塔を建て、瑠璃・珊瑚・瑪瑙などの七宝を埋めて地鎮。山号寺名を「七宝山・観音寺」に改める。ちなみに日証上人は法相宗の高僧で、興福寺法相宗の総本山である。桓武天皇(在位781〜806)をはじめ三代の天皇の勅願所となり、また室町時代には足利尊氏の子・道尊大政大僧正が住職を四十五年間務めるなど、寺運は隆盛を誇る。本堂は金堂とも呼ばれ、室町時代の建築。国指定の重要文化財で、朱塗りの柱が色鮮やか。境内の宝物館には、平安〜鎌倉時代作の彫刻としては珍しい釈迦涅槃像や、鎌倉時代作で開基した日証上人を描いた琴弾宮絵縁起などが収蔵されている。本堂に「常州下妻庄…貞和三年…」と書かれた落書きが残る。南北朝時代(1347)のもので四国霊場最古の落書きとされる。庶民の間にこれほどまで古く遍路文化が根付いていたとは驚きである。境内にはCafe&遍路グッズ販売の店「梧桐庵」があり、昼食には精進うどんがお勧め。甘味の種類が豊富なのも特徴で、ロードバイクの栄養補給に最適。12月に参拝した際には境内で色鮮やかな熊手を売っていた。大晦日の夜には縁起物の大熊手を数量限定で販売するとのこと。熊手は毎年11月に神社の「酉の市」で販売されるが、寺で熊手を売るのは珍しい。日本には神仏習合の慣わしが未だ色々な形で残されており、何故かほっとする。一つの納経所でニ寺参拝でき、甘味も楽しめるとは一度に三度美味しいお参りである。

御詠歌 観音の大悲の力強ければ おもき罪をも引きあげてたべ

御本尊 聖観音

真言 おん  あろりきゃ  そわか

 

同じ境内に二つの札所となった寺 香川県観音寺市「神恵院」(その84)

第六十八番札所 七宝山  神恵院

(しっぽうざん じんねいん)

住所 観音寺市八幡町1-2-7

電話 0875-25-3871

萩原寺から神恵院まで

距離  9.6km 標高差  +32m  -74m

萩原寺から神恵院まで

大宝三年(703)、法相宗の高僧日証上人この地で修行中、宇佐八幡宮のお告げを受けて、かなたの海上にて神船と琴を発見。これらを琴弾山に引き上げて祀り、琴弾八幡宮を開創する。このとき、別当寺として建立したのが寺が始まりとされる。大同ニ年(807)、弘法大師が琴弾八幡宮本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、「琴弾山神恵院」と名付け霊場と定める。その後、明治初年の神仏分離令宇佐八幡宮は琴弾神社と神恵院に分離され、神恵院は琴弾山の麓にある観音寺の境内へと移転。同時に八幡宮に安置されていた阿弥陀如来像も境内の西金堂に移。これにより「神恵院」は西金堂が本堂、阿弥陀如来像が本尊となる。平成十二年にはコンクリート打ちっぱなしの本堂が建てられ、本尊が移される。無機質な見た目は少々味気ないが、お経を詠むと声がきれいに反射し、独特の音響効果を味わうことができるのは意外な発見。寺の宝物館には「釈迦涅槃像」「琴弾八幡本地仏像図」「琴弾宮絵縁起図」など国の重要文化財に指定された寺宝が納められている。大師堂の横の山には巍巍園(ぎぎえん)と名づけられた庭園がある。室町時代の回遊式日本庭園で、春にはツツジが美しく咲き誇ることで有名。庭園の最上部には巨石が立つ。古くから座禅の場であり、大蛇が住むと伝わる。燧灘に臨む、琴弾山中腹に立つ寺は、同じ境内に第六十九番霊場の観音寺が並び立つ。一つの境内にニつの寺があるのはとても珍しいが、維新の際、檀家を持たなかった神恵院が、やむを得ずに移転先として選択した結果であるとのこと。納経所も観音寺のものを兼ねるため、お遍路さんは同時に二箇所を打てることとなる。時間に余裕が出来たら、山に上にある琴弾八幡宮に足を伸ばすのも良い。神社の境内からは観音寺市街が、その上の展望所からは瀬戸内海が見渡せる。

御詠歌 笛の音も松吹く風も琴弾くも 歌うも舞うも法のこえごえ

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていぜい  からうん

 

萩の花が咲き乱れる寺 香川県観音寺市「萩原寺」(その83)

別格第十六番札所 巨鼇山  萩原寺

(きょごうざん はぎわらじ)

住所 観音寺市大野原町萩原2742

電話 0875-54-2066

大興寺から萩原寺まで

距離  6.2km 標高差  ほぼ平坦

大興寺から萩原寺まで

縁起によると大同二年(807)、弘法大師寺を開創する。この時、大師は千手観音とニ体の地蔵菩薩像を刻み、千手観音は第六十六番札所の雲辺寺に、地蔵菩薩は当寺に安置する。寺は雲辺寺の末寺で、同じ山号を用いている。延喜三年(903)に醍醐天皇の勅旨談義所となり、天慶ニ年(929)には朱雀天皇が讃州四箇談義所に定める。鎌倉時代雲辺寺が火災による被害を受けた際には、末寺の当寺が寺務を執り行ったという。また、室町時代の応永年間(1394〜1428)には伊予の守護職河野家の帰依を受けた真恵上人が当寺で寺務を執り行い、雲辺寺を再興する。この頃から本末の関係が入れ替わり、雲辺寺が本寺の末寺となったとの記述もあるが、定かではない。享徳ニ年(1453)には讃岐の守護職細川家の帰依を受けた慶恵が入寺し、堂宇を本格的に整備する。明応ニ年(1492)の記録には、讃岐、伊予、阿波に二百八十余寺の末寺を従える大寺であると記されている。その後、長宗我部の兵火で寺は焼失するが、豊臣秀吉に讃岐の国を与えられた生駒親正が讃岐十五箇院を定めて真言宗寺院を保護。この十五箇院は当寺以外に八十八霊場では本山寺道隆寺国分寺白峯寺が含まれ、これにより寺は再興を果たす。萩原村の地蔵院と呼ばれた寺は、慶長年間(1596〜1615)の頃には現在の寺名を用いるようになる。寺の宝物館には、国の重要文化財に指定されている「急就章」「法華曼陀羅図」「観経曼陀羅図」のほか、数百点におよぶ寺宝が納められている。このうち「急就章」は大師の真筆とされる。境内には本堂、仁王門、大師堂、客殿、宝物館など九つの堂宇が建ち並び、秋の七草の一つである萩(ハギ)がいたるところに植えられている。寺は県内有数の萩の名所であり、別名「萩寺」と呼ばれる。九月中旬から下旬には30種類、約2,500株の萩の花が咲き乱れ、多くの見物客や参拝客の目を楽しませる。普段の寺は別格の寺院らしく参拝者はまばら。納経所も普段は留守がちで、呼ぶと子供を連れた係の人が対応してくれるなど、素朴で温かい寺である。大人数のお遍路さんがマイクロバスで乗り付けて来る寺より、こうした小ぢんまりした寺の方が何故かほっとする。讃岐の寺らしく周囲にはため池が多い。寺のすぐ南にある井関池の堤防には千株のツツジが植えられ、池と寺の間には桜の名所で知られる五郷山公園がある。ロードバイクで少し足を伸ばせば、春秋いずれでも楽しいお花見ができる。

御詠歌 尊くも火伏をちかふ地蔵尊 はぎの御山に世を救ふらむ

御本尊 地蔵菩薩

真言 おん  かかかびさんまえい  そわか