格第六番札所 臨海山 龍光院
(りんかいざん りゅうこういん)
電話 0895-22-0527
距離 40.6km 標高差 +271m -270m
江戸時代初期の元和元年(1615)に伊達秀宗が初代宇和島藩主として入部する。その際、宇和島城の鬼門に当たるこの地に鎮めとして、藩の安寧と領民の安泰を祈願する寺が建立される。これが龍光院の創始であり、寺領として百石を授かり伊達家の祈願寺と定められる。寛永十五年(1638)に京都大覚寺二品宮親王が四国を巡錫した際、この地の風光明媚を讃えて「臨海山福壽寺」の号を与える。龍光院は四国四十番札所観自在寺の奥の院でもある。奥の院はもとは宇和島湾九島の遍照山願成寺であったが、海路を行くのが不便なため寛文八年(1686)に寺の本堂が宇和島市元結掛に移され、明治維新の際に現在地へと再移転される。江戸時代初期の僧・澄禅の「四国辺路日記」には「祈願所ニ地蔵院龍光院トテ両寺在リ。此宇和島ハ昔ヨリ万事豊ニテ自由成所ナリ。殊ニ魚類多シ」とある。境内には四国八十八箇所と別格二十霊場を合わせたミニ四国百八箇所の石仏が並び、山頂にある白亜の大観音像まで続く。この像は平成ニ年に中国から勧請されたもので、一石彫りとしては西日本随一の大きさ。南予一円の守護と安泰を願う百八煩悩消滅の成就所であり、毎年五月には除災招福大観音大護摩祈祷が厳修される。境内には芭蕉の句碑「父母の志き里に恋し稚児の葦」がある。これは芭蕉の母が宇和島から伊賀名張に移住した菊地氏の出であることに由来する。平安時代に四国巡錫中の弘法大師が、宇和島が京の都から離れた僻地で文化も伝わりづらいことを憂い、四国巡礼開創をこの地にて発願したと伝わるが、寺との関わりは不明である。寺は宇和島駅から徒歩5分。駅前の国道から路地へと立ち入ったところにあるが、百十四段の石段を登る高台にあるせいか、市街地の喧騒は余り感じられない。観自在寺からの道のりは、前半はリアス式海岸を北上するため、適度なアップダウンと美しい入り江を楽しめるが、後半は内陸を通るためやや退屈。ロードバイクで走るには物足りなさが残るが、宇和島はこの地独特の郷土料理が多く、寺の周囲には食事処に事欠かない。ガッツリ食べて次に進むか、泊まって飲食を楽しむか、いずれも楽しめる地である。
御詠歌 みめぐみの杖をたよりに有為の山 越えてくもらぬ月を見るかな
御本尊 十一面観世音菩薩
御真言 おん まか きゃろにきゃ そわか