ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

役行者が開いた石鉄修行道の根本道場のお寺 愛媛県西条市「前神寺」(その75)

第六十四番札所 石鉄山  前神寺

(いしづちざん  まえがみじ)

住所 西条市洲之内甲1426

電話 0897-56-6995

吉祥寺から前神寺まで

距離  3.2km 標高差  ほぼ平坦

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吉祥寺から前神寺まで

天武天皇(在位673~86)の時代、修験道の祖・役行者小角が石鎚山で修行を積んでいるときのこと。釈迦如来阿弥陀如来衆生の苦悩を救済するため石鈇山蔵王権現となって現われたことに感得した小角が、その姿を刻んで祀ったのが寺の始まりとされる。権現とは衆生を救うために色々な姿となって現れる仏や菩薩のことをいい、神仏習合のこの時代では神も仏も同じように崇められていた。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願。成就を果たしたことから七堂伽藍を建立し、勅願寺「金色院・前神寺」の称号を下賜する。以降、文徳天皇高倉天皇後鳥羽天皇順徳天皇など歴代天皇の信仰を篤く受ける。後に弘法大師石鎚山を二度巡鍚し、虚空蔵求聞持法や護摩修行、断食修行などを行う。大師が二十四歳のときの著書「三教指帰」には「或時は石峯に跨って粮(かて)を絶ち轗軻(かんか)たり」と苦行難行の様子が記されている。慶長十五年(1610)には豊臣秀頼が神殿を修築、福島正則がその普請奉行となる。江戸時代には西条藩松平家の祈願所となり、三つ葉葵が寺紋として下賜されるなど寺運は隆盛を極める。その後の明治維新神仏分離令により寺領は没収され、前神寺があった石鎚山七合目付近の場所には石鎚神社が建立される。寺は廃寺を余儀なくされるが、明治二十二年に東に数百メートル離れた旧讃岐街道沿いの現在地にて前神寺として復興を果たす。石鎚山(標高1982m)は日本七霊山の一つで、山岳信仰の山として古くから崇拝されてきたが、石鎚山は山自体が御神体のため、人々は麓の霊場にて参拝するのが慣わしとなっていた。寺は真言宗石鈇派の総本山であり、修験道の根本道場である。ちなみに修験道とは日本古来の山岳宗教に神道や仏教、道教などが混合した仏教の一つであり、白装束に身を包んだ信者は滝や川で身を清め、山にこもって厳しい修行を行う。その後本堂は本尊とともに火災で焼失するが、昭和四十七年に再建され、本尊も新造される。屋根は青い銅板葺きで、権現造りの荘厳な構えを見せる。本堂より上に建つ石鈇権現堂は石鈇山蔵王大権現を祀る。三体の蔵王権現像が毎月一度開帳され、尊像に体の悪い部分を当て平癒を祈念する。本堂へ向かう途中の石段右手にある御滝不動尊はかつて滝打修行が行われていた場所。一円玉を投げ岩肌に張り付くとご利益があるとされる。寺の参道には鬱蒼とした杉檜や古い灯篭が数多く立ち並ぶ。境内にも老杉が生い茂り、深山幽谷の佇まいを見せる。左右の渡り廊下を従えた本堂はさながら鶴が翼を広げたようで、堂宇に囲まれた広い空間とその裏手に広がる山々の姿は荘厳たる霊場そのもの。これで市内のお寺回りも終了。西条は地下からの自噴水があちこちから湧き出る「水の都」であり、時間があれば最寄りのアサヒビール四国工場へ立ち寄ることをお勧めしたい。

御詠歌 前は神後は仏極楽の よろずの罪をくだくいしづち

御本尊 阿弥陀如来

真言 おん  あみりた  ていぜい  からうん

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四国霊場唯一毘沙門天を本尊とするお寺 愛媛県西条市「吉祥寺」(その74)

第六十三番札所 密教山  吉祥寺

(みっきょうざん  きちじょうじ)

住所 西条市氷見乙1048

電話 0897-57-8863

宝寿寺から吉祥寺まで

距離  1.4km 標高差  ほぼ平坦

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宝寿寺から吉祥寺まで

弘法大師がこの地を巡教したのは弘仁年間(810〜824)のこと。大師は一本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちていることを感得する。大師はこの霊木で本尊とする毘沙聞天像を彫造、さらに脇侍として吉祥天像と善膩師童子像を彫って堂宇を建立、安置したのが寺のはじまりとされる。寺は貧苦からの救済を祈念し開創されたと伝わるが、毘沙門天は財産を守るとされ、七福神の一つ。妃の吉祥天は衆生に福徳を与えるとされ、そのニ尊の子が善膩師童子である。そのころの寺は、現在地より南東に位置する坂元山にあり、広い寺域に塔頭を二十一坊ほど有していた。しかしながら、天正十三年(1585)豊臣秀吉による四国攻めの争乱に巻き込まれて全山を焼失。江戸時代に入り、万治ニ年(1659)に末寺であった檜木寺と合併し、現在の地に移り再建を果たす。本尊は「米持ち大権現」と呼ばれて農家の信仰が篤く、毎年一月には餅を持って参拝するのが習わしとされる。寺宝に非公開の「マリア観音像」がある。高さが30cmほど、純白の美しい高麗焼の像だが、伝来の由縁が興味深い。土佐沖で難破したイスパニア船の船長が長宗我部元親に贈ったもので、元親はマリア像と知らず、吉祥天のように美しい観音像として代々伝え、徳川幕府キリスト教禁令にも難を逃れたという。寺には他に鎌倉時代の「十二天屏風」、室町時代の「山越阿弥陀三尊像」が保存されている。境内のお迎え大師の右横には脇侍である吉祥天女の像がある。寺前の由来であり、あらゆる貧困を取り除き大富貴をもたらす天部の仏様である。この像の下をくぐるとご利益があるされ、「くぐり天女」の名で親しまれている。優雅な立ち姿が印象的で、寺の手拭いでは吉祥天女七福神に囲まれ微笑んでいる。柴色の鮮やかなデザインで描かれており、購入をお勧めしたい。手水鉢の右横にある高さ1mほどの石は成就岩と言われ、石の穴に金剛杖を通せば願いが叶うとされる。四国霊場の中で、本尊を毘沙聞天とする札所はここ吉祥寺だけ。北方世界を守護する四天王の一尊で、多聞天とも呼ばれる。ムカデは毘沙門さまのお使いと言われるが、この地方でもムカデは見つけても殺さず逃がすという。京都や奈良では寺の御札や絵馬、提灯にムカデの絵を書き添える寺もあり、興味のある方は調べてみればよい。寺は国道沿いにあり、入ると立派な本堂が目に飛び込んでくる。塀の外は大型トラックが幾重も通り過ぎるが、寺に入ると意外と静かで気にならない。伊予の巡礼も残り僅かであり、心安らかにお参りしたい。山門の前にロードバイク用のサドルスタンドが置いてあり、うれしい気分。

御詠歌 身の中の悪しき悲報を打ちすてて みな吉祥を望み祈れよ

御本尊 毘沙門天

真言 おん  べいしら  まんだや  そわか

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安産の観音様を祀るお寺 愛媛県西条市「宝寿寺」(その73)

第六十ニ番札所 天養山  宝寿寺

(てんようざん  ほうじゅじ)

住所 西条市小松町新屋敷甲428

電話 0898-72-2210

香園寺から宝寿寺まで

距離  1.4km 標高差  ほぼ平坦

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香園寺から宝寿寺まで

聖武天皇(在位724~49)の勅願により諸国に一の宮が造営された際、この地に大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立される。この時、大和の僧道慈律師が法楽所としての一の宮神社の別当寺を創建したのが寺のはじまりとされる。寺は天皇より「金光明最勝王経」を賜る。当時の寺名は「金剛宝寺」であり、現在地より1km程北にあったという。弘法大師がこの地方を訪ね、霊場を開設したのは大同年間(806~810)のこと。聖武天皇の妃である光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、寺名を現在のものへと改める。大師の滞在中、国司越智氏の夫人が難産で苦しんでいたため、大師が境内にある玉ノ井の霊水を用いて加持したところ、夫人は玉のような男子を無事出産。以降、本尊は安産の観音様として信仰される。その後、中山川のたび重なる洪水の被害を受け寺は荒廃するが、天養ニ年(1145)に堂宇を再建し、山号を「天養山」へと改める。その後は大山祇神社別当寺として栄えるが、天正十三年(1585)に豊臣秀吉四国征伐の戦禍で壊滅。寛永十三年(1636年)宥伝上人により、当寺のみが新屋敷の現在地付近に移され再興される。このため、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行うこととなるが、延宝七年(1679)に藩主の命により神社が当寺の脇に移転される。明治初頭の廃仏毀釈により寺は神社と分離され廃寺となるが、大石龍遍上人により明治十年に神社の南隣にて再興。大正十年には予讃線の鉄道工事に伴い現在地へと移転する。手元にある霊場のガイドブックには、寺のサブタイトルが「引っ越しばかりの受難の寺」とされており、なるほどと頷ける。境内にある弘法大師像は、明治二十六年に名古屋の常磐津式尾太夫らにより奉納されたものである。同じく十一面観音立像は、大正十二年に一切女人・国家安穏・諸願成就・安産守護を願う地元の有志により奉納されたものである。境内には安産観音像もある。寺宝の孔雀文磬(けい)は鎌倉時代の作で県指定文化財。磬とは読経の際、導師が打ち衆僧に合図をする道具である。山門の脇には、中務茂兵衛が254度目の遍路をした際に建立した道標がある。中務茂兵衛とは18歳の頃に周防大島を出奔し、明治から大正にかけて四国霊場を繰り返し回ったお遍路さんで、その回数は279回。歩き遍路としては最多記録で、今後これを上回ることはないと言われる。茂兵衛が42歳、88度目の巡拝の頃から境内や遍路道沿いに道標の建立を始めたといい、現在のところ四国各地で243基の道標が確認されている。四国八十八箇所の寺はみな「四国八十八ヶ所霊場会」に加入しているが、ここ宝寿寺が数年前に霊場会を退会し、令和元年12月に再加入したのは記憶に新しいこと。退会を巡っては霊場会、寺双方に考えがあり訴訟にまで至るが、再加入までの間、霊場会は六十一番札所の香園寺の駐車場に「六十二番礼拝所」の納経所を設置。退会中も宝寿寺は納経所を開設していたことから、六十二番札所が2箇所併存する形となり、当時のお遍路さんは「どちらを参拝するか」で大いに迷わされた。訴訟を巡ってはネットで色々と意見が出ているが、お寺回りをすると色々な方に出会うし、納経所でも同様。初心者のお遍路さんに対して優しい方もいれば、そうでない方もいる。納経所で他の寺の悪口を聞かされることもある。いずれも修行と割り切り、嫌なことは忘れて淡々と進むのがお遍路さん。ちなみにこれも再加入までの間、寺の本堂と太子堂が特別開帳され、秘仏である本尊や大師坐像の写真撮影まで許可されていたのは実に有り難く、滅多にないこと。国道開通によって境内の一部が削られたせいか、寺はいたって狭く、四国霊場の中でも最小クラスと思われる。それでも堂宇はコンパクトにまとまり、日本庭園も整備されるなど寺全体清々しい感じがする。再加入までの間はお遍路さんの姿もまばらで寂しかったが、今は元に戻ったであろうか。「怖いのはコロナより人の心」と何かに書いてあったことを最後に思い出した。

御詠歌 さみだれのあとに出たる玉の井は 白坪なるや一宮かわ

御本尊 十一面観世音菩薩

真言 おん  まか  きゃろにきゃ  そわか

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聖徳太子が開創したお寺 愛媛県西条市「香園寺」(その72)

第六十一番札所 栴檀山  香園寺

(せんだんざん  こうおんじ)

住所 西条市小松町南川甲19

電話 0898-72-3861

横峰寺から香園寺まで

距離  13.2km 標高差  +32m  -789m

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横峰寺から香園寺まで

縁起によると、用明天皇(在位585〜87)の病気平癒を祈願して、皇子である聖徳太子霊夢に導かれてこの地を訪れ、堂宇を建立したのが寺の開祖とされる。このとき太子の前に金の衣を着た白髪の老翁が飛来し、大日如来像を本尊として安置したとされ、後に寺は快癒した天皇から「教王院」の山号を賜る。天平年間(729〜49)には行基菩薩が訪ね、大同年間(806〜810)には弘法大師が巡錫する。ある日のこと、門前で身重の婦人が苦しんでいた。大師は栴檀(せんだん)の香を焚いて加持・祈祷するとたちまち安産となり、玉のような男子が生まれたという。これが機縁となり、大師は唐から持ち帰った小さな金の大日如来像を本尊の胸に納める。そして再び栴檀の香を焚き、女性の救済を願い「安産」「子育て」「身代わり」「女人成仏」の「四誓願」の護摩修法を行う。さらに脇仏の不動明王を彫像・奉納し、寺を四国霊場と定める。大師はこの時、寺を参拝する者の一切の罪障が無くなり、現在安穏・後世善処の仏果が得られるよう誓願したと伝わる。山号栴檀山はこの事績に由来する。以来、寺は安産・子育ての信仰を得て栄え、七堂伽藍と六坊を揃える大寺院へと発展するが、天正の兵火で焼失。江戸時代に入り小松藩主一柳家の帰依を得て寛永年間(1624 〜1644)に再興を果たす。明治三十六年に住職となった山岡瑞園大和尚により大正三年に本堂が再興される。住職は「子安講」を創始し、全国はもとよりアジア各国や米国まで行脚する。寺は「子安のお大師さん」と親しまれ、県立小松高校の前身となる子安中学を昭和十五年に創設するなど住職は教育活動にも尽力する。昭和五十一年に本堂は妙雲寺に移築され、その跡地に鉄筋コンクリート造りの大聖堂が建立される。大聖堂は本堂と大師堂を兼ね、二階の堂内で前立本尊と大師像が参拝できる。境内には聖徳殿が立ち、毎年二月には太子を偲ぶ法事が行われる。また、近くには子宝にご利益のある子安大師が立ち、背中にゴザを背負い、左手に赤ちゃんを抱いている。境内には旧日本兵を抱えた観音像も見られる。寺は四国霊場で唯一聖徳太子が開基したという屈指の古刹。四千坪を超える広大な境内を有する大寺院であるが、座席数六百余の大聖堂はさながら劇場のようで、一方の納経所はプレハブ小屋。このアンバランスは何とも言えず受け取り方は人それぞれか。寺は国道沿いにあり、第六十四番札所の前神寺までは平坦で、それぞれの距離もごく近い。深山霊山の大ボスをお参りした後は、ロードバイクでもスーパーカブでも四寺をサクッと回れるのが嬉しい。

御詠歌 後の世を思えば詣れ香園寺 止めて止まらぬ白滝の水

御本尊 大日如来

真言 おん  あびらうんけん  ばざらだどばん

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石鎚山に建つ山岳信仰を支えたお寺 愛媛県西条市「横峰寺」(その71)

第六十番札所 石鎚山  横峰寺

(いしづちざん  よこみねじ)

住所 西条市小松町石鎚甲2253

電話 0897-59-0142

生木地蔵から横峰寺まで

距離  18.9km 標高差  +813m  -66m

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生木地蔵から横峰寺まで

寺伝によると白雉ニ年(651)に修験道の祖である役行者(えんのぎょうじゃ)が石鎚山の星ヶ森で修行中、山頂に蔵王権現が現れる。その姿を石楠花(しゃくなげ)の木に刻み、小堂を建て安置したのが寺の創建される。ちなみに役行者は奈良の吉野でも蔵王権現を感得し、桜の木に姿を刻んだとされ、以降、吉野では桜が御神木となる。延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者がこの地に住み、桓武天皇の脳病平癒を成就したことから、天皇より仙人が菩薩の称号を、寺が金の御幣を賜ったと伝わる。大同年間(806〜810)に弘法大師が厄除けと開運祈願の星供を修めたときにも蔵王権現が現れる。蔵王権現修験道の主尊であり、大師は真言密教の教主である大日如来を刻んで寺に安置し、霊場を開設する。以来、寺は石鎚神社別当寺として信仰を集め栄えるが、明治四年の神仏分離により廃寺となり、六十番札所は麓の清楽寺に、檀家は香園寺に移される。しかし、檀家の懇願を受けて明治十三年に大峰寺の名前で復興を果たし、明治四十二年に元の寺名に戻される。本堂は神社風の権現造り。本尊の大日如来坐像と併せて平安時代作の金銅蔵王権現御正体像が祀られ、共に県指定重要文化財となっている。本堂左手前には右手に剣、左手に星供の巻物を持つ星供大師の像が立つ。寺の南西600mの所には大師が星供を修法した星ケ森があり、そこから石鎚山が遥拝できる。本堂から大師堂に至る山際一面には石楠花が植えてあり、五月上旬から鮮やかな薄紅色の花が境内を彩る。ただし、連休と重なると観光客が押し寄せ、交通渋滞が発生する程なので要注意。西日本の最高峰石鎚山(1982m)は山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。大師は二十四歳の時の著書「三教指帰」で、石鎚山での修行の様子を「或時は石峯に跨って粮を絶ち、轗軻(苦行練行)たり」と記している。寺は山頂から真北へ7km、標高750mの地に立つ。四国霊場の中で三番目に高く、伊予の関所寺とされている。四国霊場の中、数ある遍路ころがしの中でも太龍寺と並ぶ最難所であったが、昭和五十九年に有料の林道が開設され、境内近くまで車両が通行可能となる。ただし冬季は通行不可となり、徒歩で登坂を余儀なくされる。林道入口に料金所があるのは全国でも珍しく、更に地元の森林組合が管理しているとは驚き。スーパーカブで400円の料金を払うと、係の人が道が悪いので気をつけるよう声をかけてくれた。誰にも会わない山道を一人寂しく登っていると、こういう声は妙に心に沁み入る。林道終点から寺までは五百mほど有り、舗装され傾斜もさほどではないが、足腰の悪いお遍路さんには少々厳しい道のり。でもお遍路さんは同行二人が常なる故か、遅れて歩いていても何故か皆明るい。林道終点から行くと寺へは大師堂の裏から入る形となるため、一旦山門まで降りてそこから登って参拝することとなる。気流の関係か、瀬戸内海から望む西条の山々はいつも雲がかって見えるが、この横峰寺も同様。滅多に晴れることはないそうで、霧に覆われた堂宇が深山の霊場といった雰囲気を醸し出す。ひたすら山道を走る大ボス的存在の寺へは坂道を変幻自在に操れるスーパーカブがお勧め。マニアの中で有名な酷道439号線よりはるかにスリリングで楽しめるが、あくまでもお遍路であり道中も修行の一つ。林道終点には土産物屋兼茶店があり、甘味が楽しめるので疲れた体を休ませたい。

御詠歌 たて横に峰や山辺に寺建てて あまねく人を救ふものかな

御本尊 大日如来

真言 おん  あびらうんけん  ばざらだどばん

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楠の霊木を祀るお寺 愛媛県西条市「生木地蔵」(その70)

別格第十一番札所 生木山  生木地蔵

(いききざん  いききじぞう)

住所 西条市丹原町高松248-1

電話 0898-68-7371

興隆寺から生木地蔵まで

距離  3.4km 標高差  +4m  -175m

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興隆寺から生木地蔵まで

寺伝によると、弘法大師霊場開創のため四国を巡錫の折、四尾山の麓にて仮の夜を過ごした時に山が光り輝き、暁には紫雲がたなびく。山の楠に童子が現れたことから大師は霊感を感得し、「童子の化身を以て我に示し給う」と一刀三礼して霊刀をふるい、一夜のうちに楠の大木に延命地蔵の尊像を刻む。ところが天邪鬼が鶏の鳴き真似をしたため、夜が明けたと思った大師は地蔵の片耳を刻み残したまま立ち去る。このことから地蔵は「耳欠け地蔵」と呼ばれ、耳の病や首から上の病気に霊験あらたかとされる。また青葉の茂る生きた楠に地蔵が刻まれたことから、寺は「生木地蔵」と呼ばれる。樹齢千二百年余と伝わる楠は、昭和二十九年の洞爺台風により根元から倒れる。本堂の横には倒れた楠の霊木が安置されており、その前に小さな楠大明神が祀られている。境内には雨乞いに効験ありと御礼により寄贈された雨乞い石がある。元禄十年(1697)の作とされる。真念の「四国遍路道指南」(1687)には「たんばら町、紫尾八幡、ふもとに大師御作生木の地蔵霊異あげて計がたし」とある。また「四国遍礼名所図会」(1800)には「生木地蔵尊楠の大樹なり、大師自刻し給ふ、今に枝葉茂りある、庵まへにあり、八幡宮山上にあり、下に門有り」とある。寺によると、楠の御霊木は根元より倒れてしまったが、大師自作のお地蔵様は倒れず昔日の姿のまま安泰しているとのこと。生木地蔵菩薩を御本尊とする生木地蔵は正善寺の院外寺院。本寺は同じ丹原町の今井にあり、御本尊は薬師如来である。カーナビに寺名を入れると誤って本寺を示すことがあるので要注意。四尾山は、遠くから見ると平野の中にぽっかりと浮かぶ島のように映る。樹木の種類が多いためかつては国の天然記念物に指定されていたが、相次ぐ台風被害により昭和四十八年に指定解除となったとのこと。内陸ゆえさほどの台風常襲地帯ではないが、地形上風の通り道となるのか。楠が倒れてしまったことと併せ残念なことである。

御詠歌 一夜にて願いを立つるみこころは 幾代かはらぬ楠のみどりば

御本尊 生木地蔵菩薩

真言 おん  かかかびさんまえい  そわか

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東予随一のもみじのお寺 愛媛県西条市「興隆寺」(その69)

別格第十番札所 仏法山  興隆寺

(ぶっぽうざん  こうりゅうじ)

住所 西条市丹原町古田甲1657

電話 0898-68-7275

国分寺から興隆寺まで

距離  16.9km 標高差  +249m  -57m

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国分寺から興隆寺まで

寺伝によると皇極天皇元年(642年)に空鉢上人により寺が創建されたとされる。空鉢上人とはインドから中国・朝鮮半島を経て渡来した法道仙人のことをいう。播磨の国一体に法道仙人ゆかりの寺が多く、四国では同じ別格霊場仙龍寺が法道仙人による開山と伝わる。その後は養老年間(712〜724)に行基が留錫。延暦年間(782〜806)には報恩大師が入山したところ、本堂西の杉の枝で本尊が光を放っているのを感得。枝を切り落とし本尊の台座とする。これが今も秘仏として伝わる千手観音であり、ゆかりの杉の木は「影向杉」「子持杉」と呼ばれる。この奇譚により寺は桓武天皇の勅願所となり、七堂伽藍が整備される。また弘法大師も寺に入山し、今の御詠歌と伝わる歌を残す。以降武家社会に入ると、皇室をはじめ、源頼朝、河野家、久松家等の崇敬を集め、東予随一の霊地となる。現在では真言宗醍醐派の別格本山とされ、本殿や宝篋印塔、銅鐘が国の重要文化財に指定。銅造如来立象や三重塔、興隆寺文書、名勝西山は県の文化財に指定されている。寺は高縄山系の西山の東麓に位置し、標高100〜300mに広大な寺域を有する。西山とは特定の山ではなく、市街の西に連なる山並みという意味。これにより寺は別名西興隆寺と呼ばれる。市街から坂道途中にある六角堂が寺へのスタート地点。その後、御詠歌に詠まれた御由流宜橋(みゆるぎのはし)という小さな赤い橋を渡る。橋の裏側には光明真言が書かれており、橋は無明から光明への架け橋とされる。仁王門をくぐると楓の木が生い茂る長い参道が続く。参道脇には牛の形に似た牛石がある。源頼朝が本堂を再建した際、資材を運搬していた牛がこの地で倒れたため、牛に似た石で葬ったと伝わる。参拝者は口のように見える石の割れ目に草を差し込み、労をねぎらうのが習わし。更に登ると右手に勅使門、城のような石垣の上いは本堂、大師堂、三重塔が立ち並び、風格のある大寺院である。別格第七番の出石寺と同様、何故この寺が八十八霊場でなく別格霊場なのか、実に残念だと思う。寺には珍しく食事処があり、畳座敷の大広間で鯛めしやうどん、汁粉が楽しめる。座敷の窓からの眺望は「扇面の景」と呼ばれる。左右に広がる山の稜線によって景色が扇型に切り取られることに由来する。和風庭園越しに広がる風景を是非味わってほしい。寺は別名「紅葉寺」と呼ばれ、秋のもみじの美しさは別格。シーズンには行楽客が押し寄せ、カメラマンに対してお遍路の邪魔にならないようにと注意看板が出るほど。せっかくなので紅葉時期の、観光客の少ない早朝を狙ってお参りするのがベストであるが、美味しいうどんはやはりお昼に味わいたいもの。さてどうしたものかと、ささやかな煩悩を楽しみたい。国分寺から第六十番札所の横峰寺まではやや距離があり、かつ横峰寺は山寺としては大ボス的存在なので、この区間スーパーカブでのお参りがお勧め。

御詠歌 み佛の法の御山の法の水 ながれも清くみゆるぎの橋

御本尊 千手千眼観世音菩薩

真言 おん  ばさら  たらま  きりく

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