ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

雌雄二羽の白鶴が舞い降りたお寺 徳島県勝浦町「鶴林寺」(その22)

第二十番札所 霊鷲山  鶴林寺

(りょうじゅざん  かくりんじ)

住所 勝浦郡勝浦町生名鷲ヵ尾14

電話 0885-42-3020

立江寺から鶴林寺まで

距離  15.0km 標高差  +501m  -19m

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立江寺から鶴林寺まで

延暦十七年(798)に桓武天皇の勅願により弘法大師が開創。寺伝によると弘法大師がこの地へ廻遊の折、雌雄二羽の白鶴が老杉の梢へと交互に舞い降りては、黄金で出来た一寸八分の地蔵菩薩を守護していた。これを見た大師は近くの霊木で三尺の地蔵菩薩を刻み、胎内にこの小さな地蔵菩薩を納めて本尊とし、寺名を鶴林寺とする。さらに大師は、境内の雰囲気が釈迦が説法した霊鷲山に似ていることから、本寺の山号として山名を譲り受ける。平城天皇嵯峨天皇など歴代天皇から篤い帰依を受け、また源頼朝義経、三好家や蜂須賀家などの武将にも信仰され、寺運は大きく栄える。山頂の難所にあるため、阿波の寺院をことごとく焼き払った「天正の兵火」から難を免れており、寺には貴重な遺物が伝わる。「波切地蔵」「矢負地蔵」の別名を持つ本尊には、難破しかけた船を導き助けた話や、漁師が猪に矢を放ったところ本尊に刺さっていたという話が残されている。地元の人からは「お鶴さん」と優しく呼ばれているが、鶴林寺山(標高516m)の山頂近くにある阿波の難所の一つで、表参道は「遍路ころがし」と呼ばれる急傾斜の坂道。途中には「丁石」と呼ばれる花崗岩の石柱が二十一基建ち、室町時代の年号が順に刻入されている。一丁は約109mで、徳島県最古の丁石。仁王像のある山門は運慶の作、本堂の右手に立つ三重塔は徳島県内唯一の三重塔である。鶴が舞い降りたとされる老杉は今も本堂左手に立ち、一対の鶴の像が本堂を守る形で立ち並ぶ。焼山寺と同様、林道さながらの細い道を登っていくが、路面はそれなりに整備されている。ただし油断は禁物。流石に山頂だけあって眺めは絶景で、遠く紀州や淡路の山並みが眺望できる。

御詠歌 しげりつる鶴の林にしるべして 大師ぞいます地蔵帝釈

御本尊 地蔵菩薩(伝弘法大師作)

真言 おん  かかかび  さんまえい  そわか

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阿波の関所寺 徳島県小松島市「立江寺」(その21)

第十九番札所 橋池山  立江寺

(きょうちざん  たつえじ)

住所 小松島市立江町若松13

電話 0885-37-1019

恩山寺から立江寺まで

距離  4.5km 標高差  +11m  -73m

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恩山寺から立江寺まで

聖武天皇勅願寺行基光明皇后の安産を願い、一寸八分の延命地蔵を刻んで本尊とし堂宇を建立する。弘法大師巡錫の際、この小さな本尊を見た大師は後世失われる恐れがあるとし、自ら六尺ほどの延命地蔵像を彫り、胎内に行基作の本尊を納める。その際に寺名を現在のものへと改めたことから、以後「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と親しまれ安産祈願の寺となる。当時は現在地より山寄りの景勝地にあり、七堂伽藍を備えた巨刹であった。その後天正の兵火に遭うが、本尊は無事に残る。江戸時代に現在地に移転され再興されるが、昭和四十九年に再び出火。ここでも本尊は無事運び出されたという。昭和五十二年に再建された本堂には東京藝術大学の教授らが花鳥風月を描いた格天井画があり、観音堂の天井絵とともに昭和の日本画を代表する作品とされている。寺宝の絹本著色釈迦三尊像は、中央に釈迦如来、脇侍として左に普賢菩薩、右に文殊菩薩を描く。温和な大和絵風の描法などから鎌倉時代の作とされる。四国八十八霊場には、各県に弘法大師の審判を受ける「関所寺」が設けられ、邪心のある者や罪人はそれより先に進めないという。阿波の関所寺はこの立江寺で、四国の総関所として八十八箇所の根本道場ともされている。江戸時代に夫を殺して男と逃亡するお京という女がこの立江寺に参った折、突如としてお京の髪が逆立ち、毛が鐘の緒に巻き付きどうしても離れない。慌てた男が救いを求め、院主に事の次第を懺悔したところ、お京の髪は肉もろとも剥ぎ取られ、無残な姿になってしまった。二人はその後、近くに草庵を建て亡夫の霊を弔い果てたといい、その時の鐘の緒は大師堂横の黒髪堂に安置されている。寺の副住職曰く「宗教に奇蹟はつきもの」とのこと。寺の近くの立江川にかかる橋に白鷺がいるときは、その橋を渡ってはならないとの言い伝えがある。行基が寺の建立場所を探した際に由来するもので、無理に渡ると災厄が降りかかるという。お寺は立江の集落の中に埋もれたようにあるため、入り口を見失うとグルっと遠回りしてしまう。門前の通りに数件ある和菓子屋では「名物たつえ餅」や薄皮饅頭が売られている。小さな町の割にはお菓子屋さんが多く、こうしたお店は寺とともに永く栄えてほしいと思う。

御詠歌 いつかさて西のすまいのわが立江 弘誓の舟に乗りていたらむ

御本尊 延命地蔵菩薩

真言 おん  かからび  さんまえい  そわか

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弘法大師 親孝行のお寺 徳島県小松島市「恩山寺」(その20)

第十八番札所 母養山  恩山寺

(ぼようざん  おんざんじ)

住所 小松島市田野町恩山寺谷40

電話 0885-33-1218

井戸寺から恩山寺まで

距離  17.6km 標高差  +68m  -9m

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井戸寺から恩山寺まで

聖武天皇の勅願によって行基が自ら刻んだ薬師如来像を本尊にして開いたとされる。創建時には「大日山福生院密厳寺」と称し、「花折り坂」より上は女性の立ち入りを許さない女人禁制の道場であった。弘仁五年(814)、弘法大師がこの地で修行をしている折に、大師の生母である玉依御前が讃岐の善通寺から訪ねてきた。子供に会えず嘆き悲しむ母親を見た大師は、寺の女人禁制を解くべく山門近くの滝に打たれて十七日間の秘法を修し、無事母親を迎え入れたという。やがて玉依御前は本寺にて出家・剃髪し髪を奉納したことから、大師は山号・寺名を現在のものに改める。そして「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓い、自らの像を刻み安置する。その後天正の兵火により焼失するが、江戸の文政年間に再興を果たす。境内の大師堂の脇には、息子に寄り添うように玉依御前を祀る御母公堂がある。山門近くにある大きな黃赤色の木はびらん樹といい、大師お手植えとされている。樹皮が剥がれ落ちるという特徴のあるこの樹木の正式名称は「ばくちの木」であるが、住職によると勝運到来といったご利益はなく、木の葉からとった水は咳止めの良薬になるいう。県の天然記念物に指定。四国八十八霊場の中で恩山寺だけに伝わるお守りに摺袈裟(すりげさ)がある。梵語の呪文である陀羅尼(だらに)が刻まれており、減罪生善(悪いことが良いことに変わる)の功徳がある。明治三十一年に落雷のため多くの建築物が焼失したがその後再建、罹災しなかった大師堂を含めて寺は八棟の建物からなる。井戸寺からは徳島市街を抜け国道33号線を南下する。片側2車線のバイパスはロードバイクには不向きで、歩道兼自転車道を我慢して進むしかないが、国道から外れると静かな田園地帯が広がる。お寺は小高い山の中腹にあり、ちょうど良い加減の上り坂。

御詠歌 子を生めるその父母の恩山寺 訪らいがたきことはあらじな

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだり  まとうぎ  そわか

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大師ゆかりの井戸覗きのお寺 徳島県徳島市「井戸寺」(その19)

 

第十七番札所 瑠璃山  井戸寺

(るりざん  いどじ)

住所 徳島市国府町井戸北屋敷80-1

電話 088-642-1324

観音寺から井戸寺まで

距離  2.8km 標高差  ほぼ平坦

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観音寺から井戸寺まで

天武天皇が勅願道場として白鳳二年(673年)に創建。本尊の七仏薬師如来聖徳太子の作、脇待の日光・月光の両菩薩像は行基の作と伝えられる。七仏ある薬師如来坐像は全国でも珍しく、七難即滅・七福即生の御利益があるという。当時の寺名は妙照寺といい、七堂伽藍や末寺十二坊を誇る壮大な寺院であった。弘法大師がこれらの像を拝むため寺を訪れた際、十一面観音菩薩を彫って安置した。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に水瓶を持った姿形で、高さ1.9mの檜一木造である。大師は村人が水不足や濁水で困っていることを知り、自らの錫杖で井戸を掘ったところ一夜にして清水がこんこんと湧き出たという。南北朝時代の兵乱と天正の兵火で二度堂宇を焼失したがいずれも再建、大正時代に今の寺名に改称する。昭和四十三年にも失火により本堂が中央本尊を残して焼失、三年後に再建される。境内には御詠歌に詠まれた「面影の井戸」と呼ばれる大師が掘った井戸がある。井戸を覗き込んで自分の姿が映れば無病息災だが、映らなければ三年以内の災厄に要注意という。また、傍らには大師が水面に映った自らの姿を刻んだ日限(ひかぎり)大師があり、五日、七日など日数を限って欠かさずお参りすれば願いが叶うと言われている。遍路道をたどって着いたこの井戸寺で五ヵ所参りも終了、阿波国府が置かれた古代阿波国の枢要地をぐるっと巡ったこととなる。大駐車場がお寺の北の県道側にあるが、山門は南側にあるので、ロードバイクであれば山門近くの路地に駐輪すればいい。

御詠歌 面影をうつしてみれば井戸の水 結べば胸のあかやおちなん

御本尊 七仏薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだり  まとうぎ そわか

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子供の健康と成長を願うお寺 徳島県徳島市「観音寺」(その18)

第十六番札所 光耀山  観音寺

(こうようざん  かんおんじ)

住所 徳島市国府町観音寺49-2

電話 088-642-2375

国分寺から観音寺まで

距離  1.7km 標高差  ほぼ平坦

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国分寺から観音寺まで

子供の健康と成長を願う寺 観音寺

聖武天皇が全国に国分寺国分尼寺を創建した際、行基に命じて勅願道場として建立したのが寺の起源。弘法大師がこの地を訪ねたのは弘仁七年で、千手観音像を彫造して本尊とする。大師は脇待像として悪魔を降伏する不動明王像と鎮護国家毘沙門天像を刻み、現在の寺名へと改める。他の阿波各地の霊場と同様、天正の兵火で焼失するも蜂須賀家の帰依を受け再興を果たす。大正初期、両親に連れられて参拝した盲目の男性が、本尊のご利益により目が見えるようになり、松葉杖を奉納したという霊験譚が伝えられる。山門右手には「夜泣き地蔵」が祀られ、子供の健康と成長を願う親が奉納したよだれかけ(スタイ)がかかる。本堂には炎に包まれた女性を描いた奉納額がある。明治期に淡路の婦人がお遍路の途中、当寺で濡れた白衣を焚火で乾かしていたところ、火が燃え移って大やけどを負う。婦人はかつて燃えた薪で姑を叩きいじめたことがあり、やけどはその戒めであると悟った婦人は反省を込めて額を奉納した。これは先代住職が子供の頃に実際に見た話だそうだが、こうした因果応報の奇談は霊場にはつきもの。山門をくぐるとすぐに本堂という、いたってこじんまりとした町中のお寺。鐘楼は戦争で供出したままとのこと。町名は「かんのんじ」だが寺名は「かんおんじ」。

御詠歌 忘れずに導きたまえ観音寺 西方世界弥陀の浄土へ

御本尊 千手観世音菩薩

真言 おん  ばさらたまら  きりく  そわか

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下の病に霊験があるお寺 徳島県徳島市「国分寺」(その17)

第十五番札所 薬王山  国分寺

(やくおうざん  こくぶんじ)

住所 徳島市国府町矢野718-1

電話 088-642-0525

常楽寺から国分寺まで

距離  0.9km 標高差  ほぼ平坦

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常楽寺から国分寺まで

天平時代、仏教に篤く帰依した聖武天皇の勅願により全国六十八箇所に国分寺国分尼寺が設置されるが、四国の四つの国分寺はいずれも札所となる。奈良の東大寺がその総国分寺である。創建したのは行基で、聖武天皇からは釈迦如来の尊像と大般若経が納められ、行基自らも薬師如来を彫刻し本尊とする。創建当初は法相宗であったが、弘法大師巡教の際に真言宗へと宗派が改められる。天正の兵火によって焼失した後、長らく荒廃したままとなるが、寛保年代に阿波藩群奉行が伽藍を再建、現在の禅宗曹洞宗寺院へと再び改められる。本堂は文化・文政年間に再建され、現在改修中(R元時点)。大師堂は近年火災にあったが、平成二十六年に再建された。本堂の前にある巨石は奈良時代に建てられた七重塔の礎石である。境内には弘法大師が本尊を刻んだという烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を祀る堂宇がある。烏枢沙摩明王は烈火で不浄を清浄と化す神力を持つとされ、最近ではトイレの神様として知られているが、古くより下の病気に霊験があるとされている。境内の庭は「阿波国分寺庭園」と呼ばれる安土桃山時代の作庭で、国の名勝に指定。本堂を背景に阿波の青石が庭全体に配置されており、その豪快な石組みは独自の雰囲気を醸し出している。

御詠歌 薄く濃くわけわけ色を染めぬれば 流転生死の秋のもみじ葉

御本尊 薬師如来

真言 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか

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流水岩のお寺 徳島県徳島市「常楽寺」(その16)

 


第十四番札所 
盛寿山  常楽寺

(せいじゅざん  じょうらくじ)

住所 徳島市国府町延命606

電話 088-642-0471

大日寺から常楽寺まで

距離  2.7km 標高差  ほぼ平坦

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大日寺から常楽寺まで

弘法大師がこの地で真言秘法を修行していると、多くの菩薩を従え化身した弥勒(みろく)菩薩が出現する。大師は忽ち感得して霊木に尊像を彫造。堂宇を建立し本尊として安置する。その後大師の甥にあたる真然僧正が金堂を建立し、続く祈親上人が講堂・三重塔を建立し七堂伽藍の大寺院となるが、天正の兵火により全て焼失。徳島藩蜂須賀光隆が今の場所より下った谷間に再興する。弥勒菩薩を本尊とするのは四国霊場で唯一この常楽寺である。弥勒菩薩とは釈尊の入滅から五十六億七千年後にこの世に現れ、衆生を救うとされる未来仏である。お遍路さんの必需品である菅笠の正面には「ゆ」と発音する梵字が一文字書かれているが、この梵字弥勒菩薩を意味する。また、この梵字弘法大師を表すと言われており、それは大師の遺告の一節に「吾れ閉眼の後、兜率天に往生し弥勒慈尊の御前に待すべし。五十六億余の後、必ず慈尊と御共に下生し、吾が先跡を問うべし」とあることに由来する。巡錫の折、糖尿病に悩む老翁を見た大師は持参の霊木を削って飲ませ加持したところ、病は忽ち治癒した。その霊木を大地に挿したのが元の境内にあったアララギの大木で、今の境内にある大木はそれが飛種したもの。幹には「アララギ大師」が祀られ、糖尿病と眼病の平癒に霊験がある。境内は固くゴツゴツした自然の岩盤の上にあり、その形状から「流水岩の庭園」と呼ばれる。御詠歌にも「常楽の岸」と読まれ、一度見たら忘れない独特の光景である。四国霊場で唯一、社会福祉施設を寺が運営している。山門のないお寺で、納経所にいる猫が参拝者をなごませる。

御詠歌 常楽の岸にはいつか至らまし 弘誓の船に乗りおくれずば

御本尊 弥勒菩薩

真言 おん  まい  たれいや  そわか

 

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