ロードバイクとスーパーカブで巡る四国八十八霊場と別格二十霊場

ロードバイクとスーパーカブで巡った108の霊場を順次ご紹介します。ブログの前半は寺の歴史と堅い文章が続きますが、後半は寺の見どころやご利益、寺へのアクセスや雑感などを書いてみました。🚲🛵

藩主を助けた楫取(かじとり)地蔵のお寺 高知県室戸市「津照寺」(その29)

第二十五番札所 宝珠山  津照寺

(ほうじゅざん  しんしょうじ)

住所 室戸市室津2652

電話 0887-23-0025

最御崎寺から津照寺まで

距離  6.5km 標高差  +5m  -147m

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最御崎寺から津照寺まで

室津港を見下ろす小高い山に位置する津照寺は、通称「津寺」と呼ばれる。弘法大師が土佐巡錫の際、山の形が地蔵菩薩が持つ宝珠に似ていることからこの地が霊地であると感得。自ら地蔵菩薩を刻んで本尊とし寺を建立する。平安時代末期に書かれた今昔物語には「津寺」の名称で登場し、「地蔵菩薩火難二値ヒ自ラ堂ヲ出ルヲ語ル」と記されている。寺の本堂が火災に遭った際、本尊地蔵菩薩が僧に姿を変えて村人に知らせ、火難を逃れたという逸話であり、本尊は「火事取り地蔵」と呼ばれる。慶長七年(1602)に初代土佐藩主である山内一豊が室戸沖で暴風雨にあった時、一人の僧が船に現れて舵をとり、室津の港に無事帰港させ立ち去る。信心深い一豊は神仏の加護であろうと津照寺に参ると、本尊の地蔵菩薩がびしょ濡れになっており、僧が地蔵菩薩であったと悟る。このことから本尊は「楫取(かじとり)地蔵」と呼ばれる。寺の紋は山内家と同じ三つ柏で、藩の庇護の下隆盛を極めたが、明治に入ると寺領が没収され廃寺となる。明治十六年に復興が許されるが寺領は大幅に削られ、わずか地蔵堂として残った本堂と寺の庫裏だけとなる。大師堂が昭和三十八年、本堂が昭和五十年に建造される。本堂の屋根には美しく輝く宝珠が据えられているが、堂内で線香を炊くため天井は黒く煤けている。本堂は百二十五段の石段を登ったところにあり、太平洋を一望できる。寺の入り口には土産物屋兼食堂の「遍路の駅夫婦善哉」があり、土地の人が多く立ち寄る。遠洋マグロ基地として栄えた港であり、今もその面影が残されている。スーパーカブで足早に立ち去るには惜しい町で、潮風を感じながらロードバイクでゆったりと散策したい。

御詠歌 法の舟入るか出づるかこの津寺 迷ふ我身をのせてたまへや

御本尊 地蔵菩薩

真言 おん  かかかび  さん  まえい  そわか

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修行の道場始まりのお寺 高知県室戸市「最御崎寺」(その28)

第二十四番札所 室戸山  最御崎寺

(むろとさん  ほつみさきじ)

住所 室戸市室戸岬町4058-1

電話 0887-23-0024

鯖大師本坊から最御崎寺まで

距離  57.3km 標高差  +243m  -94m

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鯖大師本坊から最御崎寺まで

室戸岬にほど近い断崖絶壁の麓に、波の侵食で出来た洞窟がある。延暦十一年(792)、十九歳の弘法大師は五年間の山林修業を始めるが、この洞窟で修業した際の様子を二十四歳の時の著書「三教指帰(さんごうしいき)」に「土州室戸崎に勤念す 谷響きを惜しまず 明星来影す 心に感ずるときは明星口に入り 虚空蔵光明照らし来たりて 菩薩の威を顕し 仏法の無二を現す」と記している。洞窟は二つあり、右側が大師が「三教指帰」の悟りを開いたとされる神明窟、左側が寝起きしたとされる御厨人窟(みくらど)である。記録にもあるように、神明窟での難業の最中に明星が大師の口に飛び込み、悟りを開いたとされる。また、御厨人窟から見える景色は空と海だけで、ここから「空海」という法名を得たとされる。この洞窟のある断崖の上に建つのが「修業の道場」の最初の札所である最御崎寺で、別名東寺ともいう。室戸岬の東にある寺として、同じ岬の西にある西寺(二十六番札所金剛福寺)と対となる呼び名である。大師は唐から帰朝した翌年の大同二年(807)、嵯峨天皇の勅命を受け再びこの地を訪ね、虚空蔵菩薩像を刻んで本尊とし、寺を建立する。その後は勅願寺として栄え、南北朝時代には足利尊氏により土佐の安国寺と定められる。女人禁制の寺で、女性遍路は参道入り口にある女人堂から拝んでいたが、明治五年に解禁された。本堂の脇には「空海の七不思議」の一つである「くわずいも」の畑がある。大師が土地の者に芋を乞うたところ「食べられない芋だ」と断られた。すると芋はそれ以来、本当に食べられない「くわずいも」になってしまったという。境内にある鐘石は「空海の七不思議」の一つで、小石で叩くと「キーン」と金属のような鋭い音がする。この不思議な音は冥土まで届くという。宝物殿には国内で唯一、大理石で作られた如意輪観音半跏像や木造の薬師如来坐像月光菩薩立像がある。また、山門から入った右手には、白い花をつける寄生種ヤッコソウの自生地がある。徳島県を北限とする天然記念物である。御厨人窟は落石により一時閉鎖されたが、現在は自己責任の下ヘルメット着用で入ることが出来る。洞窟の目の前を国道が通るが、これは室戸岬が年間1〜2mm隆起していることによる。海岸沿いの国道からお寺に至る室戸スカイラインは10%の激坂。土佐路では、こうした海岸近くの山寺が続くこととなるが、過去の大津波を考えると然りといったところ。御厨人窟の近くには高さ21mの青年大師像がある。像の近くの案内版に大師が死の直前、弟子の阿難に説法したという最後の言葉が現代語で次のように書かれている。「もろもろの出来事は過ぎ去るものである。人間は誰でも努力して修業に励みなさい」

御詠歌 明星の出でぬる方の東寺 くらき迷いはなどかあらまし

御本尊 虚空蔵菩薩

真言 のうぼう  あきゃしゃ  きゃらばや  おん  ありきや  まりぼり  そわか

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大師が塩漬けの鯖と大海原で戯れるお寺 徳島県海陽町「鯖大師本坊」(その27 )

別格第四番 鯖大師本坊

(さばだいしほんぼう)

住所 海部郡海陽町浅川字中相15

電話 0884-73-0743

薬王寺から鯖大師本坊まで

距離  19.7km 標高差  +141m  -138m

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薬王寺から鯖大師本坊まで

弘法大師四国霊場開創の途中、この地が霊地であることを悟り修業を行う。ある朝、大師が通りかかった馬子に積荷の塩鯖を乞うと、馬子は「坊さんとは縁がない」と口汚く罵り断る。大師は「あふ坂や  八坂坂中  鯖ひとつ  大師にくれで  駒ぞ腹病む」と詠むと、馬引坂に至った馬が急に苦しみだし歩けなくなる。この歌を聞いた馬子は先程の僧が大師だったと悟り、すぐに引き返して非礼を詫び鯖を捧げる。大師は再び「あふ坂や  八坂坂中  鯖ひとつ  大師にくれて  駒ぞ腹止む」と詠み、馬子が持ってきた水に加持して馬に与えると、馬はたちまち元気を取り戻す。大師は馬子を連れて一山越えた法生島(ほけじま)まで行き、塩鯖を海に放すと、不思議なことに鯖が生き返って勢いよく泳いでいく。これを見た馬子は仏心を起こし、この地に庵を建てたのが寺の始まりである。鯖のような生ぐさいものを大師が所望した理由について、鯖はもともとは峠の神に捧げられた「サバ(生飯)」であったという。神への供え物が鯖に変わった訳だが、大師と鯖にまつわる話は伝承として永く伝えられ、「鯖を三年間絶って祈念すると願い事がかなう」という「鯖断ち三年祈願」によってお陰を頂いた人もいる。八坂八浜とはこの辺りの地名で、古くより海沿いの難所であったが、今はトンネルが出来て往時の面影はない。鯖大師へは、国道沿いにある福餅で評判の「さばせ大福」を右折するとすぐなので、八十八箇所巡りのお遍路さんが立ち寄ることも多い。寺で販売している手拭いには波乗り大師の絵があり、「空海と塩漬けより生き返りし鯖大海原で戯れるの図」と書かれている。サーファー姿の若き大師が荒波の中イルカのような鯖と遊んでいる姿はとても魅力的。数ある寺社手拭いの中でも傑出した作品だと思う。

御詠歌 かげだにも我名を知れよ一つ松 古今来世をすくひ導く

御本尊 弘法大師

真言 南無大師遍照金剛

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厄除根本祈願所 徳島県美波町「薬王寺」(その26)

第二十三番札所 医王山  薬王寺

(いおうざん  やくおうじ)

住所 海部郡美波町奥河内寺前285-1

電話 0884-77-0023

平等寺から薬王寺まで

距離  18.2km 標高差  +170m  -201m

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平等寺から薬王寺まで

聖武天皇の勅願を受けて神亀三年(726)に行基が本寺を創建する。弘仁六年(815)に平城天皇の勅命により弘法大師が厄除薬師如来を刻み、本尊を置き再興する。寺は官寺として厄除けの根本祈願所となり、嵯峨天皇淳和天皇などの歴代天皇が勅使を遣わし厄除祈願を行っている。文治四年(1188)に火災により堂塔を焼失するが、この時、本尊自らが光を放ちながら奥の院である玉厨子山に向かって飛び去った。その後後醍醐天皇により堂塔が再建され、新たな薬師如来が安置されると、元の本尊が再び光を放ちながら堂塔へと飛来してくる。そして本尊が厨子へと後ろ向きに納まったことから「後ろ向き薬師」と呼ばれるようになり、以降本堂には本尊である薬師如来が二体祀られることとなる。本堂の裏側は裏堂と呼ばれ、秘仏である「後ろ向き薬師」に向かって拝む参拝者も多い。四国に赴いた土御門天皇は嘉禄二年(1226)にこの寺を行在所とし、また徳島藩主の蜂須賀家から寺領を賜るなど寺の繁栄が続く。薬王山は高野山真言宗の別格本山であり、厄除根本祈願所として全国的にも知られた厄除けの寺である。本堂に向かう石段は三十三段の女厄坂と四十二段の男厄坂からなり、賽銭を置きながら登り厄落としをするのが習わしである。本堂から本寺のシンボルである瑜祇塔(ゆぎとう)までの石段は六十一段の還暦厄坂という。真言密教の重要な経典の一つであり、天と地の和合を説く瑜祇経の教えを形にしたのが瑜祇塔で、本寺以外には高野山と淡路島にある。境内には、ラジウムを含んだ霊水が肺の病に効くという「肺大師」や漁業関係者がお参りに訪れる「魚藍観音」、真言を唱えながら数え年の数だけ鐘を叩いて厄災消除を願う「随求の鐘」がある。寺には紀州お接待講と呼ばれる接待がある。これは幕末の頃、四国巡礼に来た紀州藩士が薬王寺の山門にある庵を譲り受け、巡礼の労をねぎらうため始めたものである。現在もお接待所が建てられ、毎年彼岸には和歌山から世話人が訪れるという。境内からは日和佐の町並みと北河内谷川、遠くに日和佐湾が見える。この開放感が何とも清々しい。一番札所から順打ちして、二十三番札所でようやく海を見ることが出来たが、ここから先はうんざりするほど太平洋の大海原とお付き合いすることとなる。

御詠歌 皆人の病みぬる年の薬王寺 瑠璃の薬のあたえしませ

御本尊 厄除薬師如来(伝弘法大師作)

真言 おん  ころころ  せんだり  まとうぎ  そわか

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大師の霊水が人々を癒やすお寺 徳島県阿南市「平等寺」(その25)

第二十二番札所 白水山  平等寺

(はくすいざん  びょうどうじ)

住所 阿南市新野町秋山177

電話 0884-36-3522

太龍寺から平等寺まで

距離  13.0km 標高差  +104m  -130m

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太龍寺から平等寺まで

弘仁五年(814)に弘法大師がこの地を訪れ禅定に入ると五色の雲がたなびき、中から黄金色に輝く金剛界大日如来梵字が現れる。大師は更に加持すると心に釈迦如来の姿が浮かぶ。大師は薬師如来に「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」と誓い、錫杖でその場に井戸を掘ると、乳白の霊水が湧き出す。大師はこの水で身を清めて百日間の修業を行った後、薬師如来を刻み、堂を建立して本尊として安置する。山号は乳白色の霊水から「白水山」と、寺名は一切の衆生を平等に救済する祈りを込め「平等寺」とする。「平等」とは動物も草木も人も、天と地と神仏もみな等しいとする教えで、大日如来の現れの一つである。かつての平等寺には大きな通夜堂があり、家族で長逗留する人も多かった。寺名のとおり誰でも別け隔てなく受け入れる宿で、昔を知るお遍路の間では語り草であったという。室町時代平等寺は七堂伽藍や十二の末寺を持つほどに発展したが、天正年間(1573〜1592)に長宗我部元親の兵火で焼失、享保年間(1716〜1736)に再興を果たす。本堂に至る石段の下には「弘法の霊水」と呼ばれる井戸があり、水は万病に効くという。寺には男坂四十二段、女坂三十三段、子厄坂十三段で計八十八段の厄除け坂があり、厄除けのため石段に年齢の数だけ賽銭を置く参拝者が多い。本堂には箱車(イザリ車)が三台置かれているが、これは平等寺で霊験を授かり足が治ったというお遍路さんが記念に奉納したものである。少し長くなるが車の脇にある霊験記を紹介する。昭和二年五月、徳島県穴吹町に住む土谷金助という人の話であり、一字一句に隠しきれない喜びが溢れている。「私は、病気一つしたことがない至極丈夫な大工でした。しかしある日のこと原因不明の熱病がもとで完全に手足の自由が奪われてしまい、薬も効き目なく医者からも見放され、その結果四国巡礼を思いたちました。この車は出発のとき村の人たちの親切で作ってくれたものです。祖父と妻に引かせてこの寺までたどり着いたとき、お大師さんのご利益で再び足腰が立つようになりました」

御詠歌 平等にへだてのなきと聞く時は あら頼もしき仏とぞみる

御本尊 薬師如来

真言 おん  ころころ  せんだり  まとうぎ  そわか

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西の高野山 徳島県阿南市「太龍寺」(その24)

第二十一番札所 舎心山  太龍寺

(しゃしんざん  たいりゅうじ)

住所 阿南市加茂町龍山2

電話 0884-62-2021

慈眼寺から太龍寺まで

距離  26.4km 標高差  +389m   -886m

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慈眼寺から太龍寺まで

延暦十二年(793年)に桓武天皇の勅願により阿波の国司が堂宇が建立。弘法大師虚空蔵菩薩をはじめ諸仏を刻み開基する。大師が二十四歳の時に記した「三教指帰」によると、十九歳の頃、境内の奥にある「舎心嶽」という岩山で百日間の虚空蔵求聞持法を修行した。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩真言を一日一万回、百日間唱える難業で、この修業が大師の思想形成に大きく影響したと言われる。山号は修行地の舎心嶽から、寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。皇室や武家の尊信が厚く、平安時代後期には十二の子院を持つほど栄えていたが、天正の兵火に遭い、江戸時代にも何度か罹災しては藩主の保護の下再興している。戦後も山中の山寺故に困窮の時代が続き、車利用でも三十分の徒歩を余儀なくする難所中の難所であったが、平成四年に太龍寺ロープウェイが開通し容易に参拝できるようになる。舎心嶽は今は舎心ヵ嶽と呼ばれ、寺の奥の院になっている。境内から十五分程度の場所で、岩上にブロンズ製の求聞持修業大師像が東向きに坐っている。山門の金剛力士像は鎌倉時代の作品で、徳島県内で最大にして最古のもの。太子堂には「竹林の七賢人」などさまざまな伝説の彫刻がある。太竜寺山弥山(標高600m)の山頂近くに立つ太龍寺は、大師堂が御廟の橋・拝殿・御廟と高野山奥の院と同じ配置であることから「西の高野山」と呼ばれる。境内には樹齢数百年の杉や檜が立ち並び、山岳霊場の雰囲気が鬱蒼と漂う。境内からは鶴林寺が同じ高さで見え、その両側に阿波の山々が綿々と連なる。標高が同じ程度の山であっても、本州の山から眺める風景と異なる趣を感じるのは、四国霊場である所以か。ロープウェイは西日本最長の2,775m、こちらからは那珂川や剣山の大パノラマを楽しむことができるので、ゆっくりと味わいたい。

御詠歌 太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持は守護のためなり

御本尊 虚空菩薩像

真言 のうぼう  あきゃしゃらばや  おん  ありきゃまり  ぼそわか

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洞窟「穴禅定」のお寺 徳島県上勝町「慈眼寺」(その23)

 

 

別格第三番札所 慈眼寺

(じげんじ)

住所 勝浦郡上勝町正木字灌頂滝18

電話 0885-45-0044

鶴林寺から慈眼寺まで

距離  18.7km 標高差  +654m  -547m

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鶴林寺から慈眼寺まで

洞窟「穴禅定」の寺

延暦年代(782〜806)に十九歳の弘法大師が巡錫にてこの地を訪れ、霊気漂う不思議な洞窟を発見する。大師は邪気払いのため洞窟の入り口で加持祈祷を行ったところ、洞窟内で巣食っていた悪龍が飛び出し、猛然と襲いかかる。大師はひるまずに秘密真言を唱え続けたところ、その法力により悪龍は洞窟の奥へと封じ込められる。大師は更に十一日間の加持を行い、霊木に十一面観音を刻んで建立した堂宇に安置した。この洞窟は後に「禅定ヵ窟(ぜんじょうがくつ)」と呼ばれ、「穴禅定」という修業の地となる。「穴禅定」とは、先達に案内され、ローソクの灯りだけで往復100mの狭い洞窟に入堂してお参りをするものであり、無事通り抜けると無病息災、金運開運に効験があるという。寺務所前に石柱が二本あり、その幅28cmを通り抜け出来ない大柄な人は入堂が不可、閉所恐怖症の人も同様に入堂不可である。狭い洞窟の中には仏像に見立てた数多くの石があり、その奥に弘法大師像が祀られている。慈眼寺の中興は天正年代(1573〜1593)、細川頼春によると伝えられる。その後は二十番札所鶴林寺飛地塔頭七院の一つに数えられたが、他の寺院が明治維新の際に本坊へと合併された時も残され、明治八年に鶴林寺奥の院となる。駐車場の近くに本坊・大師堂があり、そこから山道を二十分ほど登ると本堂、更にその上部にある石灰岩の鍾乳洞が禅定ヵ窟である。上勝町の最後の集落を離れてしばらくすると灌頂ヵ滝という落差60mの直瀑がある。朝日を受けると水面が五色に輝くことから「不動の御来迎」と言われる。この辺りまでは観光客も来るが、そこから先の慈眼寺まで訪れる人はまばらで、別格霊場らしい静寂を味わうことができる。ここまで来ると本当に四国の山の中といった感じである。

御詠歌 天とふや鶴の奥山おくたへて 願う功力に法ぞ通はむ

御本尊 十一面観世音菩薩

真言 おん  まか  きゃろにきゃ  そわか

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